2004〜2010年の展示会

味岡伸太郎展 物理學下編
10月31日(土)〜11月23日(月)
オープニングパーティ 10月31日(土)6:30〜 お気軽にお立ち寄りください。
ギャラリーサンセリテ F1





電流ノ生起 2009 22×135cm





磁石の影響・装甲



明治12年発行の教科書「物理學下編」を書いている、と言ってもその内容が分かっているわけでも、重要なのでもない。重要なのはそれが文字であること、それも一文字や数文字でないことである。
 文章を書いてはいるが、読めることが目的ではない。もちろんわざと読めないように書いているわけではない、生来の悪筆がたたって読めないだけである。しかし、読めないことは悪いことばかりでもない。その上、読めたからと言って何かが分かるわけでもないし、読めないほうが、かえって先入観なしに直に作品に接することを促してくれる。
 美術を始めた20代にも、やはり同じようなものを書いていた、違うのは図版も同時に描いていたことだ。今回、図版は教科書の紙面をそのままコラージュした。木炭で書いた文字はその頁の一節である。文章を書く面白さとは、言葉の並びに従って書き進めると自ずから、画面に意図せぬ空間が現れることである。一文字や数文字だとなかなかそうはいかない。どうしても、コンポジションを考えがちになる。意図なくして作品は生まれない。しかし、作品にその意図を感じてしまうとつまらないものになってしまう。
 文字を書くことは不思議なことである。思ったことがそのまま結果に表れる。しかし、表れたからといって良いことばかりではない。例えば、書き出してはみたものの画面に予定の字数が入らない、と思った瞬間から、文字が小さくなり、行間が詰まってくる。それが結果的に良い場合もあれば、悪い場合もある。同じような反応なのに、わずかな意識の違いが結果を左右する。
 文字を間違えることもある。間違えてもかまわないのだが、気がつけば心苦しいので書きつぶして、その下に書き直しておく。それが意図せぬ効果になる。それを効果として狙うと見苦しい。不思議なことに、それが自然な書き直しならば、どの位置であろうと、画面を引き締めるポイントになっている。それが文字を書くことの妙でもある。
 





裂より「陶」





円柱に内接する四角柱



転成してなお
岐阜県美術館学芸員
廣江泰孝


 近作の「万葉より」から。遠くから流れ着いた時間を感じさせる。一つに、万葉集という時代観がもたらす、古から連綿と続く時間がそう思わせるのかもしれない。墨やコンテで和紙を埋め尽くした文字は、和歌の成り立ちとは遠いところで、絵画的な調和を保っている。一度、味岡の手から溢れ出した文字もまた、時空の海をたゆたう存在である。文字の並びが見せてくれる表情の豊かさとは、芸術と名のつくものが皆そうであるように、観る者の心の眼が感受するものであり、受け取り方は人様々である。文字の成立と継承という観点において、それは書における伝統と革新の問題とは異なる谷あいから、同じ山頂を目指しているかのようでもある。
 今回は、これまでの墨による制作で反故とした和紙を裁断し、それを用いた作品だと聞いた。以前の自分が残る紙の上で、羅列する文字の陰影は、いつもと同様に紙面を埋め尽くしているのだが、殊に量感が急激に増している。伸びやかな文字列で、楔が打たれるような、猛る太い線や点は、別次元へのゲートのようにも見える。これまでに様々な素材や表現方法を用いながらも、透徹した見方、接し方において制作してきたこの作家が、過去の制作の痕跡を素材として取り組んだのが今度の作品である。
 反故とした和紙もまた、紙の持つ柔らかな肌理と墨の凛とした香りがよく馴染み、太い筆の作りだす烈しさを、何処か静謐な空間へと鎮めるような印象をもたらす作品であったに違いない。コンテの描線と以前の墨跡との、または紙との折衷を表現したのではない、視覚的な層状を感じる。今回の制作のために紙は切断され、墨のかたちは元をたどることはできないが、時間を超えてなおマチエール同士が分断せずに、また完結することもなく、その流れるイメージは途切れることはない。書く、描くという枠組みを超えて、新しい邂逅を示唆してくれるような作品である。
 味岡伸太郎は、本来在るべきものの外形と内面を対峙させるような、それらをあざやかに視覚化することに長けた作家として知られる。ライフワークとなっている「文字による作品」は、時代を表記したことへの単純な距離間だけではなく、和歌の意味性や文字同士の重みや軽みまでもが綯い交ぜになった空間を発生させている。降注ぐように放たれた文字の流れの中で、目に留まった文字が、言の葉を理解しようとする感覚までも連れてくる。その混在した意識の中で制作されてきた「文字による作品」は、今日の画一化した文字媒体への警鐘を含んでいるのかもしれない。
 味岡にとって文字をドローイングするということは、その時々の自分と直接的に向き合う行為であり、とすれば今回の過去の自分とともに自照した時間を持つ作品の発表は、これまでと根本的に異なるところへと、確信をもって歩みを進めたことを告げている。それは今制作の前に、一年以上かけて取り組んでいた野花による生花に端を発する。日々生けては見つめ続けた花の風姿に、これまでの自分と異なる活かし方を学ぶところが多かったのではないか。その後、無性に文字と向き合いたくなって、反故にしていた紙に堰を切ったかのように取り組んだのが、今回の「万葉より」である。

 この展覧会では他に2種類の取り組みが発表されているので、少しばかり紹介しておく。「填より」と題されたアルミニウムと木の組み合わせによる鋳造作品から。決して融解し合わない、判然とした物体同士の性質を理解しているにも関わらず、主張し合う互いの立場から発する、緊張感を失わない作品である。しかし、硬質な金属は溶かされ方形に流し込まれることで、柔和なイメージへと一変する。固まる時に刻まれる表面の模様は、型に沿って流れた時にできたものであろうか。木の塊は声無き力強さで燃焼し、炭化する状態に応じている。溶けたアルミニウムの充填具合と、その凝固とともに、木にも表情がつくのであろうが、その表面を幾度となく熱で焼かれようと、切り取られた形を失わない。その強さが作品に現れることで、互いに律し合う虔粛な関係を貫いている作品である。
 もう一つ、陶による作品。「割より−陶−」は、成形後に二つに割られて分離することなく焼成した作品。「破ける」や「裂ける」といった受動的で曖昧な状態や、結果「壊れる」というイメージとは異なる、作り手の行為それ自体が表現となっている。焼成して出来上がった作品には、気負いのない土の性質を活かした形が提示されているが、それは土の塊から創られた味岡の思考の形でもある。土の粘性が生み出す形の面白さを、楽しませてくれる作品に仕上がっている。

 味岡伸太郎の作品に一貫して流れるテーマは、素材が持つ秘めた存在感を髄とし、それを表出させるということであろう。しかし、今回発表された作品は、以前からこの作家に強く感じるセンスからの展開だけではない、この世界で通底して流れていくものを転成させ、問いを投げかけることによって新たに流れてゆく時間が創り出したものであるかのように思われる。それは転成してなお色褪せない出来事なのかもしれない。



Now that there is a change
Yasutaka Hiroe
Curator, Art Museum, Gifu Prefectural


Looking at Ajioka Shintaro’s new serial work, “From Man’yo” (Man-yoh yori), time can be felt, flowing to the present from far away. This impression may result from the continuity of time since the old times when the classical Man’yoshu waka anthology- the, “Collection of Ten Thousand Leaves”- was written. Be these works of Japanese characters drawn in either ink or chalk, covering the whole of the paper, as removed as they may from the waka of that collection: they do sustain pictorial harmony. The characters that flowed from Ajioka’s hand some time: they, too, keep existing in the sea of time and space.

The wealth of expression in these rows of characters makes itself felt to the spectator’s inner eye, as indeed does everything to which the name of art applies; the way it does depending on the spectator. Using old writings and doing, as Ajioka does, something new with them seems to be completely different from calligraphy writing with its balance between tradition and renewal; anyhow, both seem to be heading for the same high goal.

As far as I know, for these new works, pieces cut out of thrown-away earlier ink studies have been used. The shadows of characters written in rows fill the paper as they had done before, giving, however, a much more massive impression now. Into the rows of the characters, raging lines and points have been driven like wedges, looking like gates into another dimension. This artist always has put his materials, his ways of expression, no matter how different from each other they have been, to good use by his penetrating way of looking at them, and handling them. For these works, what he used was traces and materials of earlier work.

Those thrown-away papers he used must have been in themselves spaces of peace, where the thick brush with all its severe intensity could calm down. The soft texture of the Japanese paper and the cold, clear smell of ink go well together. Moreover, what chalk lines have been drawn new do not even attempt to compromise with the earlier ink: rather, the whole feels optically stratified. Papers used having been cut, the original ink forms cannot be traced any more. Still, although the materials stem from different times, they don’t close against one another, or get concluded in themselves; producing an image of continuous flow instead. Beyond the mere writing, or painting, these works point to new encounters.
Ajioka Shintaro is well-known for his juxtaposing of outward and inner forms of things that are meant to be, and making them visual. The so-called “Works from Characters”, which may be called his life-work, first of all build up a space emphasizing temporary distance to the past, and further on, a space in which the meaning of the waka poems and the heaviness, or lightness, of the written characters are intertwined. Where, in the flood of characters streaming forth, the eye gets stopped by one single character, the observer’s wish to understand the word goes with it, too. Thus, these “Works from Characters” may contain an alarm bell against today’s standardized written medium.

Drawing characters is, for Ajioka, always a confrontation with himself. In this respect, the exhibition of these new works announces his progressing, with conviction, onto new ground. New, since the time depicted is one of personal reflection on his past. The origin may be seen in the artist’s producing, for more than a year before these new works, ikebana from wild flowers for more than a year before these new works. Handling flowers every day, and looking for a long time at them too, may have taught him many new ways of using his materials. After this, the irrepressible urge to face and tackle written characters arose, making him use thrown-away ink papers, as if a dam had been broken. This is how the series of “From Man’yo” evolved.

There are two other sorts of new works exhibited here; let me say a few words of introduction. First, the casting works combining aluminium and wood called “From Fillings” (Ten yori). Knowing well about the diverging natures of the two materials, which will never melt together, he creates objects full of tension all the same, making the hard impression turning into a soft one by casting the molten metal into a cubic form. The surface pattern may have emerged when the metal ran along that form. The massive wood keeps burning soundlessly and strongly, becoming coal. How often it may have burned, it never lost the originally cut form, with a new expression added through the molten aluminium. This makes the power of the wood tangible; the whole work is permeated by a sort of quiet respect between its two materials.

The other works are earthenware. Called ‘From Broken Pieces - Pottery’ (Katsu yori - earthenware -), they have been broken in two after modeling, but baked as one piece. Nothing of the passive, vague state of “breaking”, or the resulting picture ‘broken’ can be felt; rather, the act of creating becomes expression. In the resulting works, we find a form that suits the quiet, elastic features of earth, which is a form, made of a clay lump, of Ajioka’s thinking, too. The viscosity of the earth brings about such interesting forms, in works we can be happy about.

The topic of all Ajioka Shintaro’s works may be, to use the hidden presence of the material, and emphasize it, as its real core. These new works are, however, not just a variation on this topic, brought about by the artist’s known sensibility. Rather, they seem to be created by time itself, time, which makes the things change that are flowing within this earth, and which keeps flowing again by questions what change this is. Here, we see something happen that is all the more colourful, and powerful, now that there is a change.





味岡伸太郎展 2008
1st 2008 9月20日〜10月9日
2nd 2008 10月11日〜10月30日
ギャラリーサンセリテ F1



個展への長いプロローグ

今年の夏は慌ただしく始まった。
 その始まりは、愛知大学での「芸術論」の講座の採点だった。講義だけなら乏しい知識を掛け集めて話せば、良くも悪くも時間が過ぎれば終わってしまう。しかし、採点はそうはいかない。その上、今年はなんと毎回五百人以上が出席、講義ごとに200字のレポートを義務づけたため、12枚×500人で全レポート数は6000枚。読んでも読んでも終わらない。酷暑の悪夢である。
その間に、名古屋芸術大学の夏休みの集中講義もあった。「本作り」の話を、午前10時半から午後5時まで、五時間はしゃべり続けなくてはならない。準備も大変で、20代から最近の春夏秋冬叢書の出版物まで、ダンボール5箱にギッシリ詰めて送った。汗だくの講義を終え、事務所に息も絶え絶えでたどりつくと、次の週に予定している慶應義塾大学でのシンポジウム「情報技術と日本語」の打合せのメールが届いている。
 私はそれどころではない。その前日〆切の「第四回いなだストーンエキシビション」の石彫作品のプランがまだ未完成。これは、JAGDA(社団法人日本グラフィックデザイナー協会)の会員選抜展。案の上、催促の電話が掛かっていた。幸い(?)講義に出掛けていたため、直接のお叱りは免れたが、かといって猶予をもらえた訳ではない。
何とかプランは送れたが、慶應の準備にはまだかかれない。実は「そう20号・百」と「春夏秋冬の叢書第26号・伝統に生きる職人達」の出稿が遅れ、私のチェックと制作部分が山程残っている。出掛ける前に片付けろと、編集部からの厳命。もう明日は出掛けるというのに、悪夢に途切れがない。シンポジウムの解説映像の準備だってしなければならない……。
という慌ただしさの中で、この原稿も書いている。悪夢はこれで終わらない。シンポジウムの打合せは、前日の夜9時から、─終わったのは12時半。結局それから映像の準備。─当日は11時半終了。その後六本木でのJAGDAの運営委員会に出席しなくてはならない。シンポジウム会場は三田ではなく慶應藤沢キャンパスである。終了と同時にタクシー、小田急・メトロと乗り継いでギリギリセーフ。
 とはいっても、いつもこんな忙しい毎日を送っている訳ではない。この夏は特別慌ただしい。
特別な夏が終わると、実は、いつもと違う秋が待っている。毎年、11月に個展を開いてきたが、今年は少し早い個展である。それも二回続けて開催する。1回目は9月の20日から、立体作品を中心に、2回目は1日休んで10月11日から三週間、平面作品を中心に展示する。会場は豊橋市向山町のサンセリテ。
立体は、木とアルミニウムの鋳造作品。〈700度で溶けたアルミニウム〉と、〈木の燃焼と炭化〉の関係が創り出す色と形が私にはとても面白かった。
 平面は万葉集をドローイングした作品を展示する。今回初めて、コンテで描いた仕事を掛軸に仕立ててみた。美術を始めた30年程前にもコンテで描いていたが、まもなく還暦を迎えるにあたって初心に還ったように楽しんで描いた仕事を見て頂こうと思っている。
 実は、この個展の作品は、大忙しの夏の始まりに仕上げが重なった。せめて会期中は深まりゆく秋を感じながら、好きな作品に囲まれ、ゆったりと過ごしてみたいものである。





味岡伸太郎展
1st
填より




鉄製の型の中に樫の固まりを置き、そこに溶けたアルミニウムを充填。溶湯の温度は約700度、ふれれば樫といえども瞬時に燃え始める。幸い、アルミニウムの熱伝導率は高く冷えるのも早い。表面は燃えても内部まで燃えつきることはない。その上、溶湯に被われた部分は無酸素つまり蒸し焼き状態で炭化する。充填したアルミニウムに対して、木の部分が大きい場合は溶湯にふれた部分が炭化し黒くなり、残りは木のまま残る。溶湯は木と型枠の隙間を求めて流れ、表面張力で先端が丸まりながら途中で冷えて固まる。型枠をはずすと、アルミニウムは強く木をつかんで一体となる。アルミニウムと木の性質が出会うことでのみ作り得る「関係による形」である。













填より 2008-1
 アルミニウム・木






填より 2008-2
 アルミニウム・木






填より 2008-3
19.5×19.0×16.0cm アルミニウム・木






填より 2008-4
19.0×19.5×17.5cm アルミニウム・木







象より「填」 2008-1
39×50.3cm 墨・和紙・アクリル絵の具 水彩紙






象より「填」 2008-2
39×50.3cm 墨・和紙・アクリル絵の具 水彩紙






象より「填」 2008-3
39×50.3cm 墨・和紙・アクリル絵の具 水彩紙





割より「陶」



















味岡伸太郎展
2nd
万葉より

2008年夏、万葉集を書き始めた。万葉集を手に取り、開いた頁の歌を書いている。歌の意味が問題なのではない。重要なのはそれが文章であること、次いで言葉であること、そして文字であること。紙面が文字で埋まるまで書く。コンテが折れ、飛び散り、粉が舞う。和紙は破れ文字にならない。間違った文字は黒く消しもう一度書く。歌の終わりには区切りの線を引く。そこにコンポジションはない。只、ひたすら書いている。結果として、空間にリズムが生まれる。





万葉より一九三七





万葉より五七五






万葉より五七五






万葉より二四九・二五〇・二五一






事より





事より
77.3×33.0cm 和紙・墨












味岡伸太郎展
2007年11月3日(土)〜25日(日)
ギャラリーサンセリテ F1




















花頌抄展
2007年4月3日(火)〜27日(金) 会場:SPACE叢

花・味岡伸太郎/俳句・星野昌彦/写真・宮田明里

昨年の早春以来、味岡伸太郎が花を生け、宮田明里が撮影。
それに俳人星野昌彦が句を詠む毎日が始まって1年が過ぎた。
句、写真共にすでに1000点を越し、
夏にはその内から400点が選ばれ1冊の本になる。



彼岸花昨夜撃たれしごん狐





味岡伸太郎展
扁=三河・鳳来・霧生山よりの報告
2006年2月4日(土)〜3月5日(日)
gallery HIRAWATA


「扁=三河・鳳来・霧生山・断金の譜・五列」 117×79cm×5枚 2005






推古天皇の時代(五九二〜六二八)、 山の頂きに巨大な桐の老木、 神代桐樹が生えていた。その老木の虚洞には竜が棲み、 時折、 濃い霧雲を発生させ、 大雨を降らせていた。 人々は、この山を「桐生山・霧生山」と呼んでいた。 そこには全身が五色金翠で紅紫色を発する鳳凰も棲んでいた。 時は移り、第四十二代文武天皇が重い病にかかられた。 桐生山に住む利修仙人は鳳凰に乗り、 朝廷に参上、 病気快癒の祈祷を十七日間続けると、 やがて天皇は全快され、 霧生山に薬師如来を本尊とする寺を建て、 鳳来寺と命名して労に報いられた。 これより霧生山は鳳来寺山と呼ばれるようになったという。






2006年1月吉日
初詣
鳳来寺山にて






扁=三河・鳳来・霧生山・断金の譜・五列
制作風景
鳳来寺山中の土、水彩紙
79×117cm×5枚 2005
















扁=三河・鳳来・霧生山・平調の譜・六ー1
22.5×22.5mm×6枚






扁=三河・鳳来・霧生山・平調の譜・五ー1
22.5×22.5mm×5枚











味岡伸太郎展
2005年11月5日(土)〜29日(火)
ギャラリーサンセリテ F1


栃木・益子・上大羽からの報告3 117×79cm × 3






栃木・益子・上大羽からの報告 107.5×80.5cm































アートフォルム佐鳴湖VIEWプロジェクト
マンションの建設現場の土砂を30cmごとに採取し
採取順に塗った壁面と、2又、3又の幹に内接する四角柱を切り出した彫刻による
マンションの地下エントランスの計画



土砂採取





味岡伸太郎展
2004年10月30日(土)〜11月23日(火)
ギャラリーサンセリテ F1







「1/2が途中消滅する円柱の四等分からなる四角柱」
130×48×45 cm













制作風景






















2000年から2003年