二〇〇六年五月。
このところ毎月曜は花の日と決めて、日がな一日花を生け、家の中は花で埋まる。それを片端から撮影。まだ寒い頃から始めて、すでに二百枚程の写真がたまった。一枚ごとに俳人星野昌彦氏に句を詠んでいただく。まことに贅沢な話だが、来春には一年を通して生けた中から厳選して出版しようと、至福な時間を過している。
「花は野にあるように」は利休の茶花の教えである。しかし、野の花は美しい、とそのまま生けただけでは芸術の美しさには程遠い。同様に、野にある花を写真に止めただけでは少しも美しくない。
降った雨は地を潤し、栄養を運ぶ。草木は大地に根をはり、水は養分を茎から葉・花へと万遍なく運び、やがて、再び天に昇るという循環を繰り返す。自然には完全調和の摂理がある。一つの余分な働きもなければ、それ以上必要なものもない。花として、生けることも写真に撮られることも自然には無関係で、迷惑な話である。命ある花に鋏を入れる以上、それに代わる価値を作り出せないならば、花を生ける意味はない。芸術から受ける感動と、自然のそれとは違う。しかし、良く出来た芸術は自然に優らずとも、決して劣るものではない。それ故に我々は芸術の可能性に懸けることができる。
二〇〇六年八月。
花を生けるという。また立てるともいう。野にある花に鋏を入れ、一度命を断つ。それは命の供給源、水を断つことである。と共に根・幹から切りはなし、支える力を奪うことでもある。一度鋏が入れば、以後自力では立てない。そこで、水を入れた花器に挿し、再び新しい命を咲かせ、同時にそれを支える構造を作り出すことが、「生ける」こと「立てる」こととなる。新しい花の命をどのような場合に感じるかといえば、まず第一に花や葉や茎が首筋を伸ばし、しゃんと立っていなければいけない。うなだれていてはいけない。全て天に向って起き上がっていなければ艶消しである。その上でまず安定していなければならない。それも過ぎれば肩苦しく、適度な「をかし」が必要となる。「をかし」くあるためには、そこに常でないものが求められる。つまり格別な「面白さ」や「不思議」、あるいは「優れた」「美しい」などの状態を創り出すことが必要となる。
東南アジアの木の盆に水を張り、中央に水車の枠の欠けらを立てた。そこに姫檜扇水仙を立て掛け、山芋の蔓と葉をからませてみた(一七〇頁)。すると木の屑が現代彫刻のように見えてきた。
二〇〇六年十一月。
最近頭から「花」のことが離れない。我が家の犬「花子」と共に、朝に休日にと散歩に出掛け、手折った花を生けて八ヶ月が過ぎた。撮影点数もついに八百を超えた。花は無限だが、おのずといくつかのパターンがあり、頭でひねり出していると、やがて類型化することは目に見えている。そのため最近は花を見た瞬間の感覚に忠実に生けている。ほとんど何もしていないかのように投げ入れることも増えてきた。誰が生けても一見同じように見えるだろう。人はそう見られることを恐れ、他の人との違いを見せようと努める。しかし、我が愚犬花子より早く走れる人はいないだろうし、鷹の目のように遠目のきく人もいない。麒麟より背の高い人もいなければ、亀のように低い人もいない。誰が何を行っても人間の範囲など、実は似たり寄ったりで、能力の差は本来わずかでしかない。才能とは「世の求めに対して良き解答を出せること」だが、本来わずかでしかない差を最大限大きく見せることのできる能力も又、才能の一つだろう。花は誰が生けても花だし、俳句は誰が詠んでも十七文字で大きな違いはない。しかしそのわずかな差が問題となる。
二〇〇七年二月。
飽きもせず、花を生けている。生け始めて一年。撮影点数はすでに千を越えた。量より質というが、はたして質は量を凌駕できるか。少しでも良いものを残そうと日々心掛けている。しかし良い仕事だけ望んで、できるものではない。誤解を恐れずにいえば、質は駄作の量に比例する。土砂を山に盛り上げてみると、山の高さは土砂の量に比例する。出版の仕事を始めて、多くの若者が事務所を訪れるようになった。写真撮影の心得として、一番に教えることがある。「あらゆる視点から見る。」「一枚でも多く撮影できる、それが才能。」とかく写真が面白くない者は、撮影点数も少ない。わずかな撮影で簡単に納得してしまう。簡単なようだが、一つの物に、数多くシャッターを切るのは以外と難しい。そこに違いを見い出せなければシャッターは切れない。このことは初心者もベテランも変わらない。創作の前提として、例えば「感動」のようなもの、あるいは「発見」が必要となる。数多く作るには、この「感動」「発見」をたえまなく続けなければならない。無理矢理ひねり出すようでは長く続かない。量を作れることが結果として質を生み出すのだ。その意味で量は質を凌駕する。
二〇〇七年四月。
毎週一度、その週の花の写真を持ち、星野氏のお宅にお邪魔する、一年二ヶ月が終わった。撮影点数はおそらく千二百を越えた。生け花は、野山に咲く花に鋏を入れ、ただ花器に投げ入れるだけでも充分である。そんな単純な行為を、平均すれば一日三点、休まず続けたことになる。最終的に一冊の本にすることを考えれば、同じ器、同じ方法は何度も使えない。作為を感じさせず、生ける側にも、見る側にも飽きのこないもの、それは容易ではない。恐ろしいのは、自らが「生ける」ことに飽きてしまうことである。発想が尽きる場合もある。人の発想には自ずと限界がある。同じことの繰り返しには必ず飽きがくる。常に新鮮に花に向かわなくてはならない。人の行為には必ず作為がある。しかし、それを見せてしまっては艶消しである。そのためには前もって考えず、花にただ向かうしかない。直感が全てである。判断するとそこに作為が隙を突いてくる。「直感はあやまたない。判断こそがあやまちである。」誰の言葉だったか。「考えない。時間をかけない。直さない。」これは無器用な上に、ねじふせるだけの力や技も持たず、委ねるしかない私がやっとたどり着いた方法である。真似をしてもらっては困る。
二〇〇七年八月。
春に出版する筈が夏になり、それもついに立秋を過ぎ、暦の上ではとうとう秋になってしまった。今秋には必ず上梓しなくてはと、汗をかいている。しかし、この夏は暑い。編集が進まないのを、つい暑さのせいにしたくもなるが、暑さには何も関係ない。
花を生けることの特質とは何か、それは生きた自然を相手にすることだ。そして、前提として、花は全て美しい。自然に良いも悪いもない。全て必然の形と色を備えている。良い花悪い花、美しいも醜いも、全て人の心の中にある。生ける形を決めて花に向かえば、それに相応しくない花は悪い花となる。美とは何か、民芸運動の柳宗悦は「自在心が相をとったもの」といった。自在心とは囚われない心、無心のことだ。花の美・醜を決めるのは己に囚われた分別である。己に囚われずに仕事をするには、あれこれ考える余裕は必要ない。その点、花は有難い。いつまでも待ってはくれない。摘んだ時には、全てが決まっていなくてはならない。
花に美醜はないといいながら、好き嫌いは無視できない。純粋に好き嫌いで花を摘み、枝を切れば、そこに判断や作為の入り込む余地はない。
とにもかくにも花を生けることと編集に明け暮れた一年半が終了した。その内、四百点。これが精一杯。これ以下もこれ以上もない。 二〇〇七年九月。