▼2009-11-02 19:37 味岡伸太郎展 物理學下編 10月31日〜11月23日 ギャラリーサンセリテ F1 電流ノ生起 2009 22×135cm 今回の作品は、明治12年の物理学の教科書の解説を書いている。その教科書は、実は、30数年前の初個展の作品にも使用している。その時には、教科書の図版をドローイングしていた。違うのは、今回はその教科書を直接コラージュしてしまったこと。 上はその時代の作品。 還暦を意識して初個展の作品に還ったのではないが、還暦というのはこういうことなのか。そして、つくづく人は変われないものだと、思い知らされている。結局、20代の頃に興味を持ったことが、その後の活動に影響を与えて続けているようだ。長い間学んできたつもりだったが、大したことはないようだ。 コラージュした教科書には所々切り抜いた穴があいている。切り抜いた仮名の活字は、50音順に貼って整理している。活字の見本帳がほしくて、20代の頃に古本屋で買い求めたものだ。それは今もって私の仮名デザインの大事な参考書である。 20代の頃から変わらないことが、もう一つ、書、掛け軸、巻物、日本語の活字等々、興味の対象はいつも日本だった。その中でも、特に文字だった。いつもそこに還ってしまう。アルファベットのデザインに興味を持ったことがない。美術で文字を書く時には、読むことは意識には無い。コミュニケーションの問題は書体のデザインで考えてきた。 漢字文化圏の人々の、何千年にもわたる美意識の結集としての「漢字」文字の不思議な魅力はそのことにつきる。 ▼2010-10-12 16:01 味岡伸太郎展 是空より 2010年10月30日〜11月23日 ギャラリーサンセリテ ここ数年文字を書く機会が増えている。何故、文字を書くのか。 文字には「書き順」があり、文章には文字の配列つまり文字の「並び順」が決められている。「書き順」「並び順」に従って手を動かせば、画面が作者の軌跡で埋まっていく。 気に入らないと思ったり、文字を間違えたと思えば、即座に消し、書き直しておく。それもまた一つの痕跡となる。画面的には、その痕跡は文字を書くのとは異なるストロークとなり、画面に緊張を生む。 文字には。言葉(言語)を伝達し記録する機能がある。しかし、あえて読めないようには書いてはいないが、さりとて、読めるようにも書いていない。 もちろん、書く題材を選ぶときには、充分にその内容は吟味する。しかし、一端書き出せば、内容とは全く関係なく、ひたすら文字の「書き順」「並び順」を追って、一画一画、一文字一文字を書くだけである。書き終わった後も、その結果としての画面と書いた文の内容は関係ない。 文字を、丁寧に、又強く書こうと思えば、画面にはその思いがそのまま現れる。「どこに、どのように」書くと意識して始めれば、意識どうりの結果になる。多くは意識が増幅されて、その意識が不自然な形となって画面に現われる。人は意識の産物である。意識無くして何事も始まらない。しかし、意識が事のあり方をゆがめた形にしてしまうことが多い。 文字を書くことは意識による選択である。しかし、一端文字を書き出せば、意識から離れて、「只文字を書く」が求められる。何をどこに、どのように書くかから離れ、「只書く」ことによって、統一されたストロークで画面が埋め尽くされていく。しかし、統一が前に出てしまえば「只書く」のではなく、「統一して書く」こととなり、退屈な結果となる。書く度の無意識の行為が、結果として統一されることが「文字を書く」ことの意義なのだ。 私は今もって描くことにこだわっている。画面を描くことで満たそうとしている。自らの痕跡で画面を埋めようとしている。しかし、画面に何を、どこに、どのように描くのか。そして、どのような状態になったら、完成といえるのか。というようなことに私の興味はなく、そのことを考えることは苦痛でしかない。 文字を書くことと通常の絵画とが、決定的に違うのは、文字の形とそれを書き表すための書き順により、ストロークのベクトルがあらかじめ決められていることである。 それを「不自由」と考えるか、「解放」と考えるのかで道は別れていく。 俳人星野昌彦氏に収録1000句すべてに「是空」の言葉が入った句集がある。 今回の作品はこの「是空」から題材をとった。 ▼2010-11-02 14:37 「是空」 サンセリテ サンセリテでの20回目の個展。毎年、秋に新作で発表してきた。ギャラリーは回廊25周年の記念すべき日。しかし、今年も雨のオープニングだった。 思い出せば30年以上前、東京での初個展は雪だった。銀座に珍しく雪がふり10cmも積もった。どういう訳か、個展のオープニングに晴れた記憶が殆どない。その上、今年は台風まで時を会わせてやって来た。それでも、オープニング時間の直撃だけはまぬがれた。台風の神様に感謝。 今年の作品は、俳人星野昌彦氏の句集「是空」に題材をとった。ドローイングした画面に、全てに是空の言葉が入った俳句を書いた。 会場には横約7m、縦35cmの作品一点と掛軸に仕立てた、ドローイングが21点。それに、石と板を使ったインスタレーション3点。 文字の配列と書き順のストロークに身を委ねた結果が実現する線と空間の「間」。「石と木」の「形状と重さと位置」が、実現する「必然の形」。いずれも己を空しくすることから。これも一つの「是空」。 個展会期中の7日には、湯谷温泉にかねてより改装中のアトリエで、一日だけの展示も予定している。 敷地内の森の中に、前を流れる川の石と板を使ったインスタレーション、室内には掛軸を4点と小さなインスタレーション 自然の中、民家の中、ギャラリーとは一味違う環境が実現する「出会いの結果」それが楽しみ。 ▼2009-11-30 12:47 箱書-1 終了したサンセリテの個展作品の箱書をした。一発勝負で間違いが許されないとひさしぶりに緊張した。そう思いながらもやはり文字を間違えた。落款の角度を間違えたものもある。文字の間違いは線で消し、横に書き直し、落款を訂正印代わりに余分に押した。箱の上面だけでは収まらず、横にまで筆がいってしまったが、まあまあ面白く書けた。文字の良さはもちろんだが、やはり、迷いのなさが生み出す、線のシャープさとコンポジションが全て。 写真は最も小さな箱書 ▼2009-12-14 11:50 箱書-2 先の個展の作品の内、特注分の箱書をした。書き出すまではいつも気が重いが、書き出すと面白くなってきた。そういって、調子にのると、また文字を間違える。慎重に、慎重に、大胆に。 ▼2010-11-04 11:05 箱書-3 軸装にした作品には、必ず箱書するようにしている。作者が箱書したものを共箱と呼ぶそうだ。とても評判がいい。しかし、「箱書がいい。」「箱書がいい。」と、あまり言われると、作品は良くないのかと、つい天の邪鬼が口に出そうで心配している。 通常、私は、箱の蓋の甲(蓋の上面)に題名、それに続く横面にサインを読める読めないに関係なく、出来るだけ大きく書き、それぞれの面に落款を押している。 書き方には、いろいろな考え方があるようだが、私は機能よりも箱書も作品の一部と考えて、楽しめるほうがいいと、考え、思い切り書いている。横にサインを書くのは、甲には書ききれないこともあるが、箱が立体であることを意識した結果だ。サインが蓋と本体とに割れるため、蓋を被せる時、向きの違い予防にもなる。と、言う私が、蓋の天地を間違えて書いてしまう恐れはかなり大きい、それがとても不安だ。 ▼2011-02-04 12:52 必然のサイズとその形 昨年ギャラリーサンセリテで発表した「是空より ガラス曇りて・垂乳根の母」と題した作品を、先日、岡崎のとある新築住宅に設置した。 是空より ガラス曇りて・垂乳根の母ハ 2010 327x6850mm (327x1370mmx5) 何せ幅が7mにもなる作品。通常では住宅に収まるサイズではない。額縁の制作もギャラリーが神経をすり減らしたようだ。 壁面は9mを超える大理石。天地のある作品では、せっかくの大理石が生きてこない。制作しているときは、形がいささか常識破りだと思っていたが、まるで、壁に合わせて制作したかのような、これ以上はない収まりとなった。 作品のサイズやその形には常識的なものがある。アートといえども経済原則からは逃れられないのが現状だ。 しかし、日本には古くから、巻物の形式がある。アートは作品を展示して見ることが前提となる。常時は巻いて保存し、必要に応じて広げて鑑賞するという巻物は、現代のアートには相応しくないと思いがちだが、今回の作品はその内容、使用する描画材料から、絵巻物を思い描いて導きだしたものだ。 あらためて、作品にはそれに相応しいサイズと形があり、それは前提なくして始まらなくてはならないことと、それを評価する場も目もあることを思い知る。 この住宅には、同じ個展で発表した掛軸の小品が、すでに和室の床の間をかざっていた。 ▼2011-04-03 12:26 宮沢賢治を書く 毎朝の花子との散歩が始まってもう何年もが過ぎた。その中で最初に出合ったのが河原の花だった。それは俳人星野昌彦氏の俳句とともに「花頌抄」の一冊となった。その後も散歩は続いている。 歩きながら、朝の景色の美しさをいつか写真に撮るだろうと、漠然と思っていた。ある日、その写真に万葉集や宮沢賢治を書いてみようと思った。なぜ、それらの言葉なのか、それほどの理由があるわけがあるのではないが、万葉集や宮沢賢治ならば必ず、景色に相応しい言葉があると思った。写真を見ながら、相応しい言葉を探す。これまであまり経験のない作業だが、これがなかなか面白い。 まったく読めないのにそんな作業に意味があるのかと言われそうだが、結果読めるかどうかが問題なのではなく、言葉に確信をもって書くことが重要なのだ。それとは別に、文字だけを書くことも並行して試みている。 この2点は続けて書いたもの。どちらも宮沢賢治の詩だ。いくらでも書けるが、最近は一日に2点程度だけにしている。時間をあけたほうが、惰性に走らず。常に新鮮な気持ちで紙面にむかうことができる。と、今は考えている。 ▼2012-01-18 10:56 個展 春と修羅より ギャラリーサンセリテ 2012年1月17日〜2月12日 今年も文字を書いている。何故、文字なのか。予め決められている文字の並びがあり、その文字には書き順もある。画面を埋めるための手の動きを考えることもなく。構成を考えることもなく。それを只ひたすら書く。すると、空間がそこに生まれる。 入口には芭蕉の句。 今回のタイトルは「春と修羅」。宮沢賢治の詩集を中心に書いてみた。今回の個展も文字を書いている。何故文字を書くのか。 絵画とはなにか。それは画家の美意識によるストロークで紙面を満たすことだ。それが具体的なものを描くのであれ、何ら具象性を持たないものであれ、結果としてストロークで画面が満たされることには違いない。その意味で画面に何が描かれているかは絵画の制作に関係ない。観る者は画面のストロークと、それによってもたらされるマチエールに惹かれる。それは、歌手が歌う歌詞の内容以上に、その歌手の天性の声質に我々が惹かれることに似る。もちろん、描かれる内容や歌詞の意味が、無意味と言っているのではない。マチエールや声質が人間の感動に対して、それがより直接的で、強いインパクトがあると考えている。 通常の絵画ではストロークが前もって決められることはない。描くにつれ、その結果をもとに、それが瞬間的な判断であれ、作者の意志で決められる。対して「文字」を書く場合、文章には前もって、文字の並びが決定され、その文字には書き順が決まっている。つまり、作家はその手順の通り手を動かしていく。その結果、画面がストロークで満たされる。 それでは現代の書家の全てが皆そのような評価の対象かと言えばそれは違う。なぜならば、そこには「上手な字」「読みやすい字」あるいは「古典に忠実な字」前もって、「画面構成を考え」てみたり、「書く文字の形を考え」てみたりと、只「文字」や「文章」を書くには至っていない。只「文字」を書くとは、紙面に関係なく、例えば中央に文字を書くことでもない、それもまた、中央に文字を書くという構成である。 只「文字」を書くことで、線が生まれ、空間が生まれる。それ以外の何物かの介在を許した瞬間、画面は破綻し品格を落とす。それが「文字」を書くことの意義であり、「文字」を書くことを選択した理由。 そこには作為も虚飾も存在は許さず。己を守ってくれる武器を持たず、己の存在をかけて文字を書くことに対峙する己がいるだけ。 難しいことを書いてしまったが、結果はそんな難しいものではない。