ブログ デザイン ソウル極寒不安日記

▼2011-01-24 14:07
ソウル極寒不安日記 その1

今年の1月14日から17日まで、韓国ソウルに出掛けた。初めての韓国だが、冬の韓国は決して薦めない。恐ろしく寒い。旅の目的は韓国のAsia Creative Academy (ACA)での講演とワークショップ。そうでなければ旅が基本的に好きではない私が、この極寒の季節に韓国には出かけない。




ソウルは寒い。何かに間違われないよう気をつけよう。

長いので数回に分けて掲載することにした。それでも長い初日。ついてそうそう、記号の羅列で一切分からないハングルに不安のカルチャーショック。リムジンバスで1時間10分、なんとか仁川空港からソウル市内に、バス停で待つ約束のACAディレクター、私にとっては命の綱となる通訳を担っていただくキム・ギョンキュンさんが遅れている。
バス停の名は成均館大学前。あたりは学生街のようだ。若い学生たちの間からそれらしい人物が現れた。これでも気は小さいのだ。やっと一安心。
すでに、午後2時近い、さっそく最初の仕事(?)。韓国で最も大きなフォントデザイン会社サンドルが発行する FONT CLUB の取材を近くのスタジオで受ける。

取材の前にフォントデザイナーでサンドル社長の石金浩氏と久しぶりの再会。以前、サンドルがサムスンの制定書体制作の調査で、何度か私のスタジオに訪れたことがある。相変わらず精力的にフォントデザインに立ち向かっているようだ。フォント以外の仕事が面白く、しばらくフォントデザインを怠けていたが、昨年の末からフォントデザインに力を注ぐ、心と環境が充実してきたと感じていたところ。韓国で最も優れたフォントデザインの仕事場をかいま見ることができ、タイミングの良い刺激だった。

制作したフォントの資料や作品集を沢山いただいた。目を通すと、韓国も日本と同じ悩み(問題)を抱えていることが理解できる。それは本来縦組のハングルを横組にする組版の乱れ、制作の難しさである。韓国も日本もグローバルスタンダードという、一見正当性を持ちながら、その実、巧妙な文化侵略行為に蝕まれている。恐ろしいのはそれが危機感を持たせず、静かにそして巧妙に、しかし深く進行していることだ。

その夜見たACAのゲストルーム本棚の古い美術書巻末の解説のハングルの文字組が実に美しい。もちろん縦組である。それに比較して、今日一日で目にしたハングルはとてもそれに及ばない。もちろん全て横組である。韓国ではすでに横組にほぼ席巻されてしまったようだ。多くの書籍、資料、新聞などを持って帰国したが、その中に縦組の資料は一つもない。
幸い日本の小説、雑誌、新聞などはその多くが縦組を維持しているが、フォントデザインでは横組用の開発が急がれている。そのことが実は大きな問題なのだが、そのことに反対する声は殆ど聞こえてこない。


世界の全ての文字は、書くことの必然で、より早く、より美しくを日々求めつつ、書き続けた結果で今使われる形に到達した。その多くは千年を超える気の遠くなる歳月に、目には殆ど見えない幾万の改良を積み重ねてきた。その結果として日本でも韓国(ハングルの歴史は比較的新しい)でも縦組用の文字が作られた。それを西洋文化の流入以来のたかだか百年ムそれも印刷やコンピュータの普及で日々書くことによる改良が望めなくなった時代ムで横組に変更することは、本来は無謀な行いなのだ。それを知った上での挑戦という謙虚さが書体開発に関わる人々には必要だ。

古いハングルの縦組を、一目みて気づくことは、縦に長く伸びる線が文字を結びつけるように同一線上に並んでいる。私のハングルの知識は乏しく怪しいものだが、どうやら、その縦線はハングルの母音・半母音・二重母音だけに使われる図形のようだ。結果、ハングルで使用頻度の最も高い形となる。単語もその線の一続きにまとめられ、可読性も増しているのではなかろうか。おそらくこの効果こそがハングルの美しさの由縁だ。ハングルの成立にはこの効果は当然考えられただろう。









左より、ハングルと漢字の対応。書記ハングル木版。ハングル宮書体。ハングル写植文字板(韓日タイポグラフィの歴史と技術より)。

横組ではこの効果(利点)はまったく使えない。文字を並べる新しい法則が必要になる。横組用書体開発の本質は実はこの法則の発見。その事実とその難しさは日本も同じで変わらない。しかし、日本が幸いなのは、使われる漢字・仮名を並べるにあたって、その文字の中心を並べる構造であること。対してハングルは縦のラインを揃えるというアルファベットのラインシステムに近い構造を持つ。ハングルの横組の難しさは、例えば、アルファベットを横に並べず、一字づつ縦に並べた姿を想像すれば理解できるだろう。

ハングルでロゴタイプあるいは見出しや短文を制作することは少し事情が違う。私は30年程前から、ロゴタイプには極力、水平・垂直、斜線は45度と決めて制作してきた。その類型が日本全国に見られる。それは日本の文字の性質から錯視を取り除いて強いロゴタイプを作る究極の方法だった。



ソウルに溢れるハングルの看板のロゴタイプにも、水平・垂直、斜線は45度で構成されているものが目につく。この造形はハングルの字形の特徴から必然的に導き出された結果のようだ。その多くは強く美しい。私は僅かの時間だが、ソウルの町並みの看板をかいま見ながら、ハングルの横組みとは、欧文のキャップ・ミーン・ベース・ディセンダーの各ラインに相当するハングル独自のラインの設定が鍵になると、漠然と考えていた。おのずと文字個々の高さは違ってくるのだろう と。 (続く)

ブログをupして、少し一方方向の意見かなと反省。改めて、持ち帰った新聞などを見直す。確かに、視覚的なカラーやテクスチャーの完成度は高い。日本でも続々と新しい書体が開発されている。しかし、日本の活字書体の復刻以外で藤沢周平や池波正太郎の小説を組みたいと思うだろうか。ハングルを読むことのできない者に判断する資格はあるのか、自問もした。しかし、ACAのゲストルームにあった古い美術書の解説のハングルの文字組が実に美しかった。そのことは、ハングルが読める読めないには関係ない。


▼2011-01-24 18:35
ソウル極寒不安日記 その2

サンドルでの取材を終え、いよいよACAへ、6階にキムさんの研究室や学校の事務室、そして滞在するゲストルームがある。研究室でさっそく講演の打ち合わせ。今回は私のアートとデザインに共通する考え方「個を捨てて得られる形」がテーマである。いささか難しいテーマを選んでしまったが、20代後半から現在までの活動を紹介しながらの講演となる。この近くて遠いジャンルを一時に話すのは、私にとっても初めての試みになる。日本で構成してきた画像をキムさんに見ていただき、通訳できるようにリハーサル。




ACAディレクターキムさん(右)

終えて、ゲストルームでしばしの休息。ゲストルームの門限は10時、講演は7時から9時まで、食べ損ねてしまう可能性が高いので、講演の前に韓国風のうどんのようなもので簡単に食事、別棟のセミナーハウスに。聴衆の年齢は相当高い。学生だけでなく、一般の方や、大学教授のような方もいる。キムさんの先生も今日はいらっしゃると聞いた。ここACAは「国境とジャンルを超えて活動することができるクリエーターの育成」を目標に、韓・中・日を中心としたアジア政府機関・地方自治体・教育機関・民間企業など産官学の協力で運営されている。教授陣も各国から招かれ、日本からは原研哉・三木健・奥村昭夫氏など、一線で活躍するデザイナーが名を連ねている。日本でもACAと似た活動をするMeMeデザイン学校が青山にある。昨年の今頃、そこでエディトリアルデザイナーの祖父江慎氏とともに講義したことはブログ(http://www4.atword.jp/ajioka/2010/01/)にも書いた。ACAのカタログにも掲載されている。提携しているのだろう。

講義計画書を提出するにあたり、聴衆のレベルも高いのだろうと、あれこれ考えたが、私の美術からデザインに亘る活動を紹介するのが、ACAの目的の一つでもある「国境とジャンルを超える」にふさわしいと思いいたる。書に始まって、書体のデザイン、それを使ったタイポグラフィ、建築、家具、そして絵画、彫刻、そして春夏秋冬叢書のこと、そこに掲載した、料理の器、生花の数々。さらには最近夢中になっている別荘の手作り改装の話しまで。私自信、一度に話した事がなく、どう説明すればよいか迷うほどだから、その日初めて聞かれる方は、その節操のなさに、あきれるやら、戸惑うやら、さぞや混乱したことだろう。









「美術に係わることでデザインが大衆に迎合しない。デザインに係わることで美術が社会との接点を見失わずにすむ。美術とデザインが造る山の稜線上を歩け。どちらへ足をとられても谷に落ちる」と、日本の現代美術のパイオニア山口長男から投げ掛けられたのは27歳の時。この言葉が、それ以来の活動の指針になっている。
そして同時に掛けられた言葉が、イギリスのオップアートの代表的作家ブリジット・ライリーの作品を前にして「縦縞のカーテンが風に吹かれればこのような波を描く。また、同様に、水面に風が吹けばやはりこのような模様を描く。絵描きの仕事とはこのような目に見える現象を描くのではなく、目に見えない現象を引き起こす風を描くこと。」

私が見せた画像の全て、活動の全てはこの言葉の実践の結果だ。そして、まぎれもなく、私という一人の人間の生き様の歴史であり、その全てにおいて共通する「個を捨てる」「自然に生きる」ことの実践から生まれたのだ。それを理解していただいたものと確信して、初日の講演を終える。


▼2011-01-27 10:45
ソウル極寒不安日記 その3

2日目は前日の講演をふまえ、その実例として私の作品を見せながら、ワークショップの課題説明とディスカッション。メールで届いた予定表では9時半からになっていたが待てども連絡がない。変だなと思っていたら、時間が変更になっていたとのこと。

気を取り直して、午後1時から2時間。その後7時から再び2時間の課題制作とサジェスチョン。

●学生たちに課題説明で見せたものの一例。
30年ほど前、「個を捨てて得られる形」を模索するなかでさまざまに試作した内のひとつ。
折り紙の形から、舞台衣装、舞踊公演の企画、その映像作品、公演ポスターに使用した書など、
簡単な試作から、作品として提示する過程を学生たちに説明。

色紙を折る





結果で得られた形をヒントに舞の衣装を制作する。表が白と黒。内側が紫と赤。舞ながら反転し衣装の色変えが可能。











公演で使用したタイトルの書。舞台や砂丘で公演。











学生たちは大変だ、私の講義の間には別の講座に出席する。学生の平均年齢は30を少し超えたあたりだろうか。大学を出て、就職、スキルアップを目指し、自費で学ぶ者ばかり。授業料も安くない。中には、400キロ離れた釜山から毎週電車で通う学生もいる。ウイークデイは働き、学校は週末の金土日に開講する。課題制作が佳境になるのは、土曜日の授業を終えた9時以降。日曜の午後1時の講義に間に合わせなくてはならない。課題によっては徹夜になることも多い。かなりのハードスケジュールだ。その分、学生の意識も高い。「個を捨てて得られる形」という私の課題はかなり難しいテーマの筈だが、翌日のプレゼンテーションが楽しみだ。
それにしても寒い。この教室だけは暖房の効きが悪く。室内でもコートなしではいられない。



この後、たまらずコートを着る。

講座の間にサムスン美術館に出かけた。キムさんによれば、ソウルでもっとも良いものを見ることの出来る美術館とのこと。韓国の古美術品を展示するMUSEUM 1と、韓国と世界の現代美術を展示するMUSEUM 2で構成されている。
MUSEUM 1では書画・陶磁器・金属工芸・仏教美術など韓国古美術の水準を余すことなく見る事ができるが、貧乏性の私には少し敷居が高い。
MUSEUM 2も又、韓国の現代美術の水準を見るには良い展示だ。しかし、会場で旧知の彫刻家で武蔵野美大教授伊藤誠氏に出会ったことの方が私には驚きだった。何もソウルで出会うこともない、どうも世間が狭くなっているようだ。
世界の現代美術はさすがだが、正直なところわざわざソウルで見なくても良い。殆どの作家の代表作はニューヨークで見ている。
美術鑑賞はそこそこに学校に戻り、講義再開。講義後、食事に、門限10分前に帰るがすでに鍵がかかっている。あわてて戸をたたくと守衛さんが現れる。しかし、言葉が全く通じない。キムさんの名刺を持っていることを思い出し提示。なんとかゲストルームに辿り着く。危なかった。零下15度の夜の街に放り出されるところだった。


▼2011-02-01 18:37
ソウル極寒不安日記 その4

3日目は午後1時から学生達の作品の講評。観光嫌いの私だが、講義のあいまを縫って訪れたいところがあった。
 柳宗悦は友人浅川伯教の朝鮮土産「李朝陶器」により、朝鮮文化に関心を深め、民芸運動へと繋がったことはよく知られている。柳は、当時、陶磁器・仏像・木工品・民画・民芸品等が朝鮮から散逸することに心を痛め、私財を投じてこれ等を集め、大正十三年、李王朝の創始者が建てた景福宮内に朝鮮民族美術館を開設。収集品は現在国立中央博物館に保管されていると聞いていた。柳を魅了した韓国工芸の一端をかねがね見ておきたいと思っていた。
しかし、国立中央博物館は膨大なコレクションで、短時間では無理とのこと。そこで景福宮の中にある国立民俗博物館に出かけることにした。



チャンスンと石塔

門をくぐり、最初に目に入るのがトーテムポールのような木柱と椀を伏せたような石組み。木柱はチャンスンと呼ばれる村の境界の守り神として立てられる柱。天下大将軍・地下大将軍などの守り神が知られる。石積みは石塔で村共同体としての信仰対象だ。いずれもレプリカのようだが面白い。博物館前のチャンスン広場にはヨンザバンア(牛馬に引かせる石臼小屋)や懐かしい商店などの町並が再現され、内部の展示は韓民族生活史・韓国人の日常・韓国人の一生の三部構成。解説は読めなくても古き韓国の日常生活が美に彩られていたことが理解できる。



今年の干支「卯」の展示

チャンスン広場に点在する石像は四十年ほど前に、あしげく通った兵庫県加西市の五百羅漢や明日香村の猿石に酷似し、祭りの仮面展示は長野県新野の雪祭りの面形を彷彿させる。





左、加西市の五百羅漢。右、チャンスン広場の石像。






上、新野雪祭り「幸法」。下、韓国国立民俗博物館の仮面展示。

韓国と日本の間に深い縁が存在したのか、それとも単なる偶然なのか、それを確かめる術はないが、日本は多くを韓国から学んできたことを実感する。
これらの展示物が柳が収集したものか、否かに関わらず、次々と繰り広げられる韓民族の「美の形」を前にして、柳にして「此型状美に対する最も発達した感覚を持った民族は古朝鮮人だ」とまで言わせ、民芸運動の創始を決意させた朝鮮美術発見の喜びが私にもひしひしと伝わってくる。


▼2011-02-02 18:45
ソウル極寒不安日記 その後編

1月24日のブログ「長い年末新年雑事休暇も無事終了、復活です。」で、ハングルと日本語の縦組から横組の変化について書いた。少し難しいとの意見もいただいた。
 そんな折、2月1日の日本経済新聞の文化欄の記事が目についた。書かれたのは元日本大学教授岡部進さん。「大人のための生活数学」を提唱されている。暮らしに密着した数学に親しんでもらうための活動をされている。そのための数学書は文章は縦組、数式は横組で、近年の数学の本では異例の形で出版されたそうだ。
 その理由を、大学を退職後、息子さんの住むハワイ・マウイ島に長期滞在。地元の文化が失われた悲しい歴史を知り、日本の伝統文化である縦書きにこだわった。と書かれていた。
 1月24日のブログは、なにを今更青臭いことをノ 。また独り相撲だノ 。いつもの私の悪い癖だと思いながら書いたのだが、青臭いのは私一人ではないのだと、絶滅危惧種の同胞(岡部先生すいません)発見の喜び、という独り言に皆さんをつきあわせてしまいました。


▼2011-02-05 14:00
ソウル極寒不安日記 その5

学生たちのプレゼンテーションが始まった。ある学生はガラスコップに食紅を入れ、それにソーメンを一束入れる。すると、麺に食紅が染み、回転しながら溶け、それが固まったオブジェを提示する。



また、ある学生は幅広のセロファンテープで本の表面の文字をめくり取り、それを再び本にした。



レベルは想像以上に高い。私の課題に見事に応えてくる。私も負けずに瞬時にサジェスチョンしなければならない。学生たちとの真剣勝負だ。優秀な学生たちとの時間は心地よい緊張感に満たされる。

予定のスケジュールを終え、隣のビルにあるコットウ美術館に出かけた。コットウとは木偶のことだが、代表的なものは葬列の棺を運ぶ輿を飾る喪輿コットウだ。ズラリと並ぶ木偶はその美意識に込めた思いで新たな世界に旅立つ同胞を護り慰めている。それは美しく優しい。



初日の昼食。熱く熱した石の器に炊き込みご飯を盛ってある。確かキムさんは釜飯と言っていた。日本のそれを想像したがかなり様子は違う。ご飯を食器に取り、焦げ付いた石の器に水を注いでおくと焦げがお湯に自然になじみ、それを後でいただく。目の前に同サイズの小皿がずらり、中には野菜を中心とした惣菜が並ぶ。もちろんキムチは欠かせない。食卓はとても贅沢で豊かな昼食だ。その上、かなり安いそうだ。日本人の感覚では半額ほどだろう。

2日目の昼食。河豚の鍋。寒いので、夜も鍋だった。マッコリが美味しい。料理の知識が全くないので説明ができないのが残念。3日目の夕食は初めて一人でレストランへ、メニューが全く分からない。適当に注文。やはり沢山の小皿に惣菜と、ステンレスのボールに入った、何だろう数種類の食品。まるで台所でボールで和える前のような出し方である。



海苔があるので、味噌とご飯と惣菜を載せて食べるのだろうと、かってに解釈。韓国では国策で割り箸が使えないとのこと。ステンレスのボールと箸が触れ合う音はいささか寂しいのとステンレスの箸の重ささえ我慢すれば、韓国料理はとても美味しい。訳も分からず注文したため最後の夜の食事にしては豪華さが今一だが、安い。今夜の食事代は6000ウオン、日本円で約450円。


▼2011-02-08 17:33
ソウル極寒不安日記 その6 最終回

いよいよ最終目の朝。ゲストルームの窓からソウルの街が見える。目の前の斜面がそのままうっすら雪化粧の山並みに続く。ソウルの街は山が近い。撮影しようとベランダに出て驚いた。分厚いサッシが二重。部屋にいるとオンドルの暖かさで忘れてしまうが、やはりソウルは寒いのだ。



空港までリムジンで帰ろうとしたが、前夜、バスを待つ時間の寒さを心配し、空港鉄道でと地図を用意してくれた。寒くても一度経験した方法で帰ったほうが安心感があるので、リムジンにしたかったのだが、バス停までの道が分からない。仕方なく言われるまま空港鉄道にした。「地球の歩き方」に書いてあったことを思い出した。「自分のしたいもてなしを精一杯するのが韓国流で、エスカレートすると相手の都合を軽んじてしまう傾向もある。」私には寒さに耐えるよりも、地理も言葉も初めての道を行く事の不安の方が大きい。しかし、日本人の私は、好意を断り、リムジンのバス停の地図を要求するささやかな勇気も持たない。明日の不安よりも今日の不安を回避する事をつい選んでしまう。私は気が小さい上に弱いのだ。

しかし、明日の不安は、必ず今日の不安になる。不安を胸にソウル駅にタクシーで向かう。途中光化門を右に観る。景福宮の正門だ。日本の朝鮮総統府庁舎建設で撤去されるところを柳宗悦等の反対で破壊をまぬがれたもの。



空港鉄道のことは「地球の歩き方」を見ればよいと思っていたが、私のは最新版の筈だが、2010年12月開業予定とだけ、説明はなにもない。万事窮す。
そのうえ、頂いたチケット販売機の説明と機械が違う。苦労して乗った列車は車内表示がおかしい。説明では直通の筈だが、どうやら途中の金浦空港を過ぎたあたりで下車しなくてはならないようだ。



とまあ、こんなていたらくでもなんとか仁川空港到着。一路帰国。名古屋に到着すると、おりしもの大雪。しかし、道路には雪に溶けた水たまりがある。ソウルでは雪は溶けず、水たまりを見ることはなかった。日本の冬はやはり暖かい。次は是非気候の良いころに招待していただこう。 (終わり)