▼2011-12-12 14:09 つぶ食 いしもと 浜松市天竜区水窪町で、アワ、ヒエ、キビなどの雑穀料理を食べさせていただける店があると聞き「そう」の取材をかねて出掛けた。水窪は遠州最北端の山深いところ、普段食べることのない雑穀を体験することが目的で、正直なところ、大きな期待はしていなかった。 ところが、囲炉裏の炭火に暖められ待つことしばし、小ぶりな膳に並べられた小鉢の盛りつけに驚かされた。野卑さもなく、いかにも美味しそうなのである。郷土料理と聞いていたが、とんでもない。 肉魚は一切ないのだが充分満たされる。山の幸が様々にアレンジされ、どれもが美しく作り手の思いが伝わる。その上、食材だけでなく、醤油を含めて全てが、自らの手作りと聞かされてただただ驚かされるばかり。餅粟を使ったというドレッシング(写真右上)も絶品で、久しぶりに身も心も堪能。こころから美味しい取材だった。 写真のほかに揚げ物が10品ほどつき2000円のコース。3000円のコースもあるようだ。 教えたくもあり教えたくなくもあり つぶ食 いしもと 完全予約制 〒431-4102 浜松市天竜区水窪町地頭方389電話 053-987-0411 営業時間 12:00〜14:00 ▼2014-06-05 12:46 四谷千枚田・鮎滝 四谷の千枚田に出かけた。千枚田で作る米の五平餅のパッケージの打ち合わせと見学にお伺いした。鞍掛山麓千枚田保存会の小山舜二さんは、イギリスBBCやCOPと忙しそうに動いていた。 棚田では田植えも始まり、水がはられた田の上を、鯉のぼりが気持ちよさそうに泳いでいる。 帰りの食堂で「今日はお父さんが鮎滝の当番です。いかがですか。」のお誘い。鮎滝を眼下に見下ろす場所から、鮎が滝壺から、ひっきりなしに跳ね上がる様子がうかがえる。 近づけば、こちらから質問する前に、笠網漁の説明がとぎれない。 笠網漁は約400年前、丸木流しの障害になっていた岩盤を切り開いた功により、地元村民に許可されたものだという。滝を跳ね上ろうとする鮎を、2間ほどの柄の網で掬い取る。 今日は大漁。捕れない日は丸一日かけても10匹程度のこともあるという。捕れそうな日は朝4時から、いそいそと漁場まで出かけてしまうという。それにしても今日ほどの大漁は珍しく、仲間たちに見に来るように連絡したという。 しかし、やってきたとしても、漁をする権利は村人でも当番の4軒だけ。今日の大漁は、常日頃のこころがけがよいからだと自慢するという。次の当番は10日後。それまでのこころがけで、次の取れ高が決まる。 大漁の鮎はどのように処理するのか尋ねたら、4軒で山分けし、その後は、娘たちに連絡して分けるという。 しかし、娘たちは、はらわたを出し、唐揚げしたと、連絡しなければ取りにはこない、来れば来たで、全部持って行ってしまう、と、文句を言う。そのわりには満足げだった。 ▼2014-12-16 17:40 遠山霜月まつり 遠山霜月まつりにピンチヒッターの取材に出かけた。飯田市南信濃、飯田市上村の中央構造線に沿って連なる細長いV字状の峡谷、遠山郷に伝えられてきた祭りだ。しかし、取材の対象は祭りではない。今は使用されていない引退面とも古代面とも称される、たれ目の面の取材だ。その面については、6月発行の「そう」で詳しく書かなくてはならないので、ここでは書けない、そこで、遠山霜月まつりについて少しだけ。 遠山霜月まつりは、毎年十二月、遠山郷十二カ所(十三神社)で奉納されている。その内、江戸時代初期まで、この地を支配していた遠山氏の惣鎮守であったとされるのが、木沢・正八幡神社である。 国道一五二号で和田市街を抜け、遠山川に添って走るとまもなく木沢の集落である。国道から旧道に入り三ッ沢橋を渡ると右手に一際高く聳える、おそらく欅の大木が目に入る。その昔は、辺りは樹々に埋もれていたのだろうが、現在は小さな鳥居と数段の石段と、登り切った僅かな本殿の前庭に数本の高木が立つばかり。 まだ冬の日は高いがすでに本殿前には太い薪が焚かれ、人々が暖をとり祭りの始まりを待っている。辺りはすっかり人工の町になってしまっている。もちろん、現代的な町並みではない。どこも変わらぬ、過疎の村、特有の町並みだが、正八幡神社だけが、ポッカリと、時代に抗うように中世の頃から変わらぬ鎌倉武士の気概を漂わしている。 神木の巨大さに比較すると、いささか不釣り合いな鳥居をいざくぐろうとするが、汚れた我が身が恐れ咄嗟に鳥居横を通り、石段を登る。 大きな格子戸を開けると長年の湯立ての湯と竈の煙でいぶされ、舞処の壁も天井も真っ黒である。中央に三つの釜を並べた竈を備えその上には巨大な梁が渡されていたのだが、祭が始まってしばらくして、その存在に気がついたほど真っ黒だった。 湯立ての釜の回りには、ハ丁字と呼ばれる八柱の竈神の弊が立つ。竈上の湯飾りには、鳥居、日天子・月天使、格子の切り紙が飾られ、湯男の弊と神の通り道「千道八橋」が延び、祭りの間、湯気に煽られ、はためき続けている。これまで、三遠南信で数多くの湯立神楽を見てきたが、これ程、神と交歓するに相応しい舞処は初めてである。柳田国男が「日本の祭りの原型」と書いた祭りである。期待も高まる。 格子戸の横には会所がある。訪れた人々が寸志を奉納する。すると、のしの文字と金額・奉納品と共に寄進者の名を書き、舞処の四方の壁に貼る。それが祭りを支える一助となるのだが、その数が増え、壁が埋め尽くされると共に祭りが盛り上がってくる。 しかし、その書きぶりは、お世辞にも達筆とは言い難い。そのこだわりのなさが、かえって山里に生きる人々の生き様と逞しさを、遺憾なく発揮しているようにも思えた。 その堂々とした、微笑ましい一枚を、写真にとどめおこうしたら、◯◯の知り合いかいと聞かれ、困った。この下手さが面白いとは、とても言えない。 湯立神楽は、最も太陽の光が衰え、あらゆる生命の力も衰えるとされる旧暦十一月に、神々を招いて湯を立て、湯を献じ、自らも浴びることによって、神も人も生まれ変わるという信仰を伝える祭りである。 祭りは二部構成である。前半は、繰り返し、繰り返し、諸国の神々にご降臨をお願いする。それに応じて神々が湯の上飾りの千道八橋を通って訪れ、湯立神楽を神々に奉る。そして、神々をお送りする。 後半は、この土地だけの面形の神々が舞処に現れ、集う全ての人々の頭を、笹や笏でふれ、祝福を与えながら竈を一周する。 次々と神をお迎えし、滞りなく神々をお送りすると最後に天伯が現れ、舞処を鎮めると、遠山谷には新しい春が訪れる。 まもなく夜が開けようとしている。祭りが終わると、厳しい遠山の生活に新しい時代が蘇ることを信じながらの、帰路新野峠は雪が降りしきっていたようだが、私は毛布にくるまれぐっすり寝入っていた。 写真撮影・宮田明里 ▼2015-01-04 17:20 花祭り あけましておめでとうございます 久しぶりに花祭りに出かけました。初めて娘と娘夫婦に孫まで一つの車です。それというのも、新年早々の大雪で、スタッドレスの準備が一台きりだったからだ。旧鳳来町までは殆ど雪はない。しかし東栄町に入ると晴れてはいるのだが、さすがに雪が道路にも残っている。今回はおしめをつけた孫が一緒なので、初心者にお薦めの花祭りコースを選んだ。 豊橋出発は3日の朝6時。祭りはすでに12時間前に始まっている。ゆっくり走っても2時間以内に東栄町の古戸に着く。おそらく、四つ舞が始まっているだろう。扇、やち、剣とみるだけで実に4時間かかる。馴れない方には退屈な時間だろうが、四ッ舞こそが花祭りの真髄の舞なのだ。気力、体力、経験が見せる舞が楽しめる。それが分かるのだろう、榊の枝を渡すとさっそく孫たちもそれを手に見まねで舞っていた。 「神々の里の形」を上梓して、もう15年になるが、その時、三ッ舞を舞った中学生が今年は四ッ舞の剣を舞っている。あのとき、宮人の一人が、あの子がいれば15年は大丈夫と言っていた15年が過ぎた。さすがに、立派に青年の舞の主役を務めていた。 四ッ舞の間には、必ずといってよいほど、一力が入る。一力とは願主の希望により臨時に舞いを奉納することだが、すでに昨夜の内に終了した榊鬼などがでてくることが多い。今年は山見鬼、地堅が登場した。 四ッ舞が終わると翁が登場する。翁は舞庭を一回りし、もどきとおかしく問答をして帰るのだが観客も悪口をまぜっかえす、初めての客は驚くだろうが、この悪口雑言も花祭りではなくてはならない祭りの一部なのだ。 そして、毎年の恒例、消防団の四つ舞の一力。例年は、嫁さん願望の鉢巻きをしめて、舞子と一緒に舞う若者がいたのに今年はいなかった。全員、見事、願いがかなったのかノ ?やっと湯囃しである。孫が湯囃しを舞う姿を見るのが夢という一番の人気の舞である。舞が終わると同時に場内に釜の湯をまき散らす。 清掃の後、伴鬼が登場した。時計はすでに午後3時。すでに7時間以上が経過している。孫たちはそろそろ限界。この後、朝鬼が姿を見せ、獅子が舞庭を清めて祭りは一応終了するのだが、孫たちの舞庭デビューはここまで。 このコースならば、初心者でも疲れも寒さもなく、花祭りの一応一通りの舞を見ることができる。しかし、意地を張って、祭りを見るのに、そんな軟弱は許せないという方は、決しておとめはいたしません。どうぞ、前日の夕方6時から、24時間。寒く、眠く、煙い祭りの醍醐味をお味わいください。しかし、それで、どうか、祭りを嫌いにならないでください。 今年も一年頑張り過ぎずにマイペースでいきたいものです。 ▼2015-01-07 18:13 初夢 夏目漱石や黒澤明ではないが、今朝「こんな夢を見た」。 真っ暗な空になにかが刺さり、一つの小さな穴が開いた。少し放れたところにも穴が開く。やがてその数が七つ。その穴をつなぐように切り裂かれた線が延びていく。北斗七星だ。そして満点の星空となる。地上には月光仮面が現れた。自転車のようなものに乗る。(テレビではスクーターだったが)そして、自転車のペダルを回しだす。自転車のライトが前方を照らすとそこには花嫁がいた。 ここで目が覚めた。自転車のライトは唐十郎の古い演出の記憶だろうか。ともかく、珍しく鮮明な夢だった。そういえば、昨年の大晦日、取材のお付きあいで西尾の伊文神社に出かけた。カウントダウンの後宝船のお札を配るという。 私も並んで手に入れた。 宝船のお札を枕の下に敷いてよい初夢を見るためだが、並んだ人たちに聞くと、枕の下に敷いて寝ると、クシャクシャになるからそんなことはせずに、最近は額に入れて掛けて置くという。それでは意味ないのだがノ 私は枕の下にも額にも入れていない。もう、忘れていたがこの夢で思い出した。私の周りにも、適齢の女性たちがたくさんいる。その内の誰かが、晴れてお嫁さんになるとでもいうのだろうか。いずれにしても、悪い初夢ではなさそうだ。 ▼2014-12-16 08:54 ゴキブリは食べられる ゴキブリが混入し、回収騒ぎになっている。20数年前のことだが、私のアトリエで、西江雅之氏の講演をしたことがある。 西江雅之氏をご存じない方のため、氏の略歴を記しておく。 1937年東京生まれ。専門は言語学・文化人類学。早稲田大学政経学部卒、同大学文学部英文科卒、同大学大学院芸術学修士課程修了。フルブライト奨学生としてカリフォルニア大学(U.C.L.A)大学院で学ぶ。東京外国語大学、早稲田大学、東京芸術大学などで教壇にたつ。23歳で日本初のスワヒリ語の文法を発表。アフリカ諸語、ビジン・クレオール語の先駆的研究をなした。 その時、タブーについて話され、人類に食糧危機の心配をする必要はないという。食料はこの地球上でまだまだ幾らでもある。ただ、どの国にも、タブーがあり。立派に食料となるのに食べようとしないため、食糧危機が発生するという。日本人は蛸を食べるのに食べない国がある。牛も豚も食べられない国がある。コウモリを食べる国もあるノ などなど それら全てが、その国の文化的タブーによるもので、それが、人類にとって食べてはならないものではない。そして、人類を食糧危機から救う、繁殖も早く、養殖もでき、充分なタンパク源となる食材としてゴキブリを推薦していた。養殖されたゴキブリの真っ黒な固まりがゾロゾロうごめく姿は、考えてもぞっとするが、鰻の養殖場で合成飼料に群がる鰻の姿を一度見れば、鰻だって気持ち悪くなる。 さて、焼きそばの話にもどるが、混入していたゴキブリは、加熱処理までされていたそうだ。正確には、製造工程の熱処理加工前に混入したということだろう。すると、殺菌処理しているということではないか。無理に食べることはないが、食べたとしても何の支障もない。 日本では、以前普通にイナゴを食べていた。山間部では、今も蜂の子を食べる。ゴキブリはそれとどこが違うというのだ。汚いものの代名詞にされているだけだ。汚いといってもゴキブリが絶対にいないと言い切れる日本の家庭はどれほどあるのか。恐らく、全ての家庭は、汚い台所で調理していることになる。つまり、毒入り餃子とは、根本的に違うのだ。もちろん、、キブリの混入はない方がいい。しかし、それでも、その程度のことでしかない。マスコミが「食の安全をどう確保するか」と大騒ぎするほどのことではない。その上、この問題は食の安全とは何ら関係はない。大騒ぎして混入してもいない、全ての商品を《廃棄させる》ことのほうが、はるかに重要な問題なのだ。 もちろん、メーカーとしては、このような大騒ぎになれば、モタモタするよりも早く処理したほうが、混乱を最小限に防げるという、いたしかたない判断であろうから、理解はできる。しかし、それとは別に、全ての商品の廃棄することが、本当に正しい行為なのだろうかという、素朴な論調がマスコミから何故出てこない。 家庭の台所でゴキブリが歩いていたからと、その日の食品を全て廃棄する家庭などあるはずがない。私ならば、このことが報じられても構わず購入するし、食べる。但し、数日は、裏返して、ゴキブリの混入を確認するかもしれないが、もしも、見つけても、次の日、事務所で大騒ぎする程度だ。そして、すぐに忘れるだろう。 かたや、同じマスコミが、世界で多くの子供たちが餓死する映像を流し続けている。それを見ながら、食べても構わない焼きそばを大量に廃棄し、そして、日々大量に発生する、食べ残し。このギャップに、なんの反省もなく、正義の味方ぶるマスコミや、飽食の日本に、最近、居心地の悪さを感じてならない。