ブログ 田舎暮らし 湯谷の家

▼2009-11-17 14:27
田舎暮らし 弁解と実践の記 其の1

子曰わく、吾れ十有五にして学に志す。
三十にして立つ。
四十にして惑わず。
五十にして天命を知る。
六十にして耳順がう。
七十にして心の欲する所に従って矩を踰えず。

 孔子ほど優れておらずとも、程度の差はあれ人は誰もがおおよそこの言葉のような人生を歩む。私にしても、それまで無関心だった美術やデザインに興味を持ったのが高校一年、15の春だった。書体のデザインを始めたのが30歳の始め、東京での初個展も30歳である。40歳のころは何事にも無鉄砲に自信があった。天命であるかどうかは疑わしいが、五十歳で上梓した「神々の里の形」は古本市場で新刊3,800円が約3倍の12,800円にもなった。この出版が切っ掛けで「春夏秋冬叢書」を仲間と共に設立、ここまではさほど(?)孔子の教えと違わない。
 そして60歳、1949年生まれが今年還暦を迎えた。私もその端くれだ。平均寿命も男で約80歳となり。還暦から20年をいかにして過ごすか、団塊の世代が直面する課題である。孔子の教えでは「六十にして耳順がう。」つまり、「他人の言葉に素直に耳を傾けられるようになる」筈だった。ところが「年寄りの冷や水」と言われてもしかたのないことを始めようと思っている。
 我々が若かったころ、アメリカでは「ベトナム戦争」に反対し、徴兵を拒否し、自然と平和と歌を愛し人間として自由に生きようと呼びかけ、ヒッピーが生まれた。中には「Back to nature」をモットーに自然に回帰する者も現れ、我々の世代の少なくない数が同調した。しかし「戦争」「徴兵」という現実を持たない日本のヒッピーは、「フーテン」と呼ばれる日本独特のスタイルのヒッピーを生んだ。そこに現実逃避の臭いを感じ、馴染めず、といって高度経済成長の波にも乗れず、当時誰もが疑わなかった村から都市へ、あるいは日本的なるものから西洋的なものへの転換も果たせず還暦を迎えてしまった。
 前置きが長くなってしまった。ようは、遅ればせながら山に「アトリエ」、別の言い方ならば若い頃にできなかった「Back to nature」を実践しようというのである。70になってしまっては体力に限界があり、今が最高(最後?)のタイミングと周りを説得し、自らを鼓舞している。しかし「自然に帰る」といっても生まれた状態、つまり一人で行こうというのではない。嫁さん、家族道連れである。60年も生きてきたスタイルはもう変えようもないし、一人では生きられない。我慢して付き合って頂くしか仕様がない。

どうも弁解が多いが、一言で言えば、以下は田舎生活に知識も馴染みもなく、その上意気地もない60男の「田舎暮らし」の実践記(弁解あるいは学習メモ)である。



飯田線、新城市田ノ島付近

プロローグとして、まず土地探しから。

残念ながら、今のところ山に定住はできない。そこで行き来を考えると、現在の住まいから片道1時間ならばそれほど苦痛でもない。すると候補地は愛知県旧鳳来町で旧新城市からそれほど遠くない地域に限られてくる。
田舎暮らし専門の不動産から情報を集めて、候補地を探すが街での知識は殆ど役に立たない。一々確認して納得するしかない。



宇連川を望む

まず該当する物件の多くに「都市計画区域外」と表記されている。この地域は建築基準法に基づく「建築確認」を必要としない。農地以外なら何処へでも自由に建築ができる。通常、人口1万人以下でサラリーマン世帯が50%以下の山間部、過疎もしくは過疎化現象を起こしている地域に多く、愛知県の奥三河はほぼそれに該当する。自由に建築できると聞いて、面白い物ができそうだと一瞬喜んだのも束の間、「建築確認」は不要でも、個々の建築物の持つべき性能に対する規定、例えば構造とか窓の大きさなどは、全国どこに建てようと守らなければならず、「何でも建てて良い」のではない。

次に出てきた聞き慣れない言葉が「赤道」。「せきどう」ではない。「あかみち」と読む。明治9年太政官布告により、道路はその重要度によって国道・県道・里道の三種類に分けられた。その後、大正八8年に(旧)道路法が施行、全ての道路は国有とされ、県道は知事、市町村道は市町村長の管理となった。その際、重要な里道のみを市町村道に指定したため、それ以外は道路法の適用外で国有のまま小さな路地や畦道、山道(林道、けもの道)として取り残され、公図上赤色で着色することが義務づけられたことから赤線、赤道と呼んでいる。
公図上に地番の記載のない土地は、他に青地、白地、ドロ揚地などがある。青地(または青線)とは、河川や水路の敷地のことであり、白地は、着色がなく、地番の記載もない区画、ドロ揚地は、白地の一種で、水路等に溜まった土砂を取り除く際の土砂貯留用地のこと。

田舎物件は一筋縄ではいかない。

ある物件では公図に確かに赤色で細い里道が示されていた。現地で確認すると、人がやっと通れるだけの道が線路を横切り敷地に通じている。付近の住民に聞くと、その道は個人の所有だという。公図ではオレンジで着色され、以前は畦道だったようだ。赤く着色されていたのはその横を流れる沢で今は地下の水路となり、飯田線の下を潜り、その先で再び沢の姿を現し、青道ならぬ赤道の水は宇連川に注いでいる。赤道を横切るように鉄道線路が通っても踏み切りが設けられるとは限らず、既得権として線路の横断が黙認されている。



赤道を横切って線路は走る。路肩には横断禁止の看板が。しかし、その奥には住宅がある。

赤道は建築基準法の道路ではないが、都市計画区域外では接道義務がなく建築が可能である。接道義務とは建築基準法により、建築物の敷地が、道路に2メートル(ないし3メートル)以上接しなければならないこと。都市計画区域と準都市計画区域内で適用され、都市計画決定されていない区域では接道義務は無い。
この赤道の先の物件は国定公園法の第二種特別地域に含まれる。ここにも様々な規制と聞き慣れない言葉が待ち受けている。それは又。



宇連川対岸より。


▼2010-01-02 10:52
初詣

明けましておめでとうございます。
初詣の前に昨年手にいれた土地を見に出掛けることに、姪や甥たちの子供にも川遊びに最適と高評価。今年は、この土地と家の整備で忙しくなる。寒い元旦だったが、湯谷はさらに冷え、雪が積もっていた。



地球の温暖化と、今年は暖冬の長期予想はどこ行った。暮れにお会いした地元の方の「雪はめったに積もらない」の言葉はどうなった。家も直したいし、薪窯も造りたい、茶室も欲しいとおもうのだが、この雪で気持ちは「全ては暖かくなってから」。帰りに一宮の砥鹿神社へ、暗くなりかかっているのに、まだ参拝客がズラリ、恐れを知らない我が家の者どもは、並ぶのはいやだと、すいている夷社のお参りだけに。初夷には少し早いが、御利益は商売繁盛、家内安全、豊漁祈願、まあ、いいか。



帰りに、人の列が出来ていた屋台の鯛焼き屋に並んで買った。鯛を抱えた夷様のご褒美なのか。しっぽの先まで餡が入り、暖かかった。沢山買ったので、支払いは賽銭より多い。

翌2日は姪や甥たちの子供を連れて、牛川の渡しまで愛犬花子の散歩に、



渡し舟は鐘をたたくとやってくる。



渡しは道路だから、正月も休みがない。その上無料。豊橋市街からもさほど遠くない所に不思議に今も残っている。子供たちも楽しみ、雑煮を食べ、さきほど帰っていった。大人だけの平穏が戻ってきたが、いささか退屈だ。



▼2010-01-27 10:13
田舎暮らし お試し版

いよいよ田舎暮らしの予行練習が始まった。24日には内部の荷物を運び出し、壁天井の解体から開始。まだ生活が始まらないのに、気分は田舎暮らし。しかし、本音は不安の山。薪割りも心配の一つ。薪などは買えばよいのだが、せっかく田舎暮らしを始めるのだから、可能な限り手作りにしたいものだと、今のところは強がっている。そこで、手に入れたのが手動薪割り機、カタログ通りならば、パワーは7tで、径30cm、長42cmまで割れるという。さっそく試し運転。










昨年の10月の台風で倒れた径25cmほどの欅を手に入れた。枝をはらい、そのまま野天に捨てられていたものなので、だいぶ乾きが進んでいたようだが、怖いように割れていく。ゆっくりだが、汗もかかず女性でも大丈夫。おそらく伐採直後ならもっときれいに割れる。だろう。



▼2010-02-01 09:19
田舎暮らし テーブル作り

最近、週末は湯谷に通っている。片道1時間の距離は、予想通り全く気にならない。30日は先週切り倒した、径35cmほどの杉を薪にする予定だったが、輪切りにして予定が変わった。それだけで、疲れたのか、もっと良い利用方法が見つかったのか、その理由はご想像にまかせるが、輪切りのまま、椅子とテーブルにすることにした。



街にいるときは、効率や予定通りすすめることにこだわってしまうが、そのようなことからも、簡単に解放されような気がするから、我ながら不思議なものである。それはそれとしてまあまあの出来ではないか。奥の木立の向こうに見える河原にはこの土地を通らないと降りられない。かってにプライベート河原と決めこんでんでいる。今から、夏が楽しみである。


▼2010-02-08 18:24

恐ろしい週末

最近の週末は本当に疲れる。今週の土曜日はミームデザイン学校の最後の授業。祖父江さんとのコラボレーションは気持ちが楽で良いのだが、スケジュールが恐ろしくハード。
 朝9時1分の新幹線で上京、早めの昼食。12時30分から、3時間の授業。その後にそれぞれ1時間の休憩を挟んで、卒業式、シンポジューム、パーティーと続き、終了予定は深夜の11時。朝9時から、14時間の拘束である。いやー、本当に疲れた。
 翌、7日は、6時30分起床。青山のホテルから見た東京の夜明けが美しかった。気がつけば、西の空には富士山が見えていた。





まだ明け切らぬ東京を後にして、一路帰郷。9時45分、豊橋着。早々に着替えて、湯谷に向かう。11時半には湯谷に到着。やはり空気が気持ちいい。先週作った庭のテーブルで饂飩を食べる。なんでもないものが此処だとおいしく感じてしまう。
 先週やり残した、倒木の整理と室内の解体を気の向くままに。午後3時半には日が山陰に、急に冷えてくる。旧鳳来町の温泉、ゆ〜ゆ〜アリーナには歩いて行ける。疲れた体が湯の温かさと暮れ行く光に包まれる。ゆっくりと露天風呂につかり、温泉街から洩れる灯りを眺めながら山道をひた走る。帰路、寿司好きな娘が勧める回転寿司で夕食。満腹になって、驚くほど安くて、びっくり。慌ただしいが、充実してる。しかし、体はまだ慣れない。明日の筋肉痛が恐ろしい。


▼2010-02-21 16:06
美味しい一日

湯谷に向かう前に、敷地境界に植樹をと西尾市まで出掛けた。白樫と椿を植えることにした。帰りは蒲郡で昼食。かねてより噂の蕎麦屋「かわせみ」は、プリンスホテルに向かってマリンロードを豊橋方面に、西田橋の袂を左に入ると左側にある。川縁で店名が「かわせみ」ノ 平岩弓枝の「御宿かわせみ」の主人公「るい」役の、沢口靖子ばりの女将さんは無理でもノ と妄想は膨らみ、おそらく店も江戸情緒あふれるいきな作りでノ そして、店の前には柳の並木ノ 期待は見事に裏切られたが、ざる海老の唐揚げと天麩羅の後にいただいたおろし蕎麦は、大根が辛すぎず、出汁がよくきいて美味しかった。器に盛られた姿にも好感。料理が出る前から食の持てなしは始まる。味以外を含めた全体がさらに食事をひきたてる。その視点の欠如が、田舎が田舎である理由なのだろう。
 いつものように日のある間、林のなかで気の向くままに、いつもなら、西の山に日が入る午後4時頃までに湯谷を後にする。昨日は、湯谷温泉主催の「花祭り」のダイジェスト版が、対岸の大駐車場で開かれるのを見学予定、始めて日が沈んだ後の6時近くまで留まった。まだ外は明るく思いの他、日は長くなっている。枯れ草の下から、小さな芽も顔をだし春は近い。時間まで、敷地内を散策、撮影。




敷地の林から宇連川を望む。




かってにプライベート河原とよんでいる。




敷地内の川縁の散歩道。



対岸遠くには僅かに人家が見える。

このあたりは夜になると食事するところが少ない、温泉街の旅館も予約が必要である。結局、私は肉は食べないのだが、妻と娘の希望で、15分ほど下り、「こんたく長篠」で鳳来牛を食べることに。私は決して食べないので、どうでもいいが、鳳来牛はとても美味しいらしい。奥三河で食事すると大きな店で客がなく、家族だけが隅に寄せ合ってという、いささか寂しい気持ちを味わうことも多いのだが、予想外に賑やかだった。美味しいという評判はどうも本当らしい。しかし、肉を食べない私に味の保証はできない。負け惜しみではないが、美味しそうに肉をほおばる家族の前で私が食べた、ドレッシングをかけただけの野菜は美味しかった。
 我々の出版社「春夏秋冬叢書」で発行した「御土産大全」でも鳳来牛は紹介している。くどいようだが、私には関係ないが美味しいらしい。
 夜風の冷たさが気持ちいい露天風呂にも入って、8時をわずかに過ぎたころ花祭り会場に。すでに多くの人がテントの特設会場に集まっている。おなじみの「テーホヘ、テホヘ」の掛け声と共に、中央に竈を据えた舞庭で鬼が舞っていた。






やはり観光地でイベントとして見せる祭りと現場で見るのは違うと、少しばかりの知識が、批判めいた考えを走らせる。
 いやいや、これが切っ掛けとなり、実際の祭りを体験する方が一人でも増えればと、少し大人の心になったら、無料の甘酒がとても美味しく感じられた。美味しいものを食べさせて頂いた一日だった。


▼2010-04-26 10:44
ライフラインは牛歩のごとし

湯谷の土地が天竜奥三河国定公園の第二種特別地域に含まれ自然公園法が適用されることは、前にも書いたが、宇連川に約60十メートル接するこの土地には河川法も適用される。自然が豊かであることは、それを保全する様々な法の網と調整しながら生活するということでもある。



春の宇連川

河川法は第26条で、「河川区域内の土地において工作物を新築し、改築し、又は除却しようとする者は、国土交通省令で定めるところにより、河川管理者の許可を受けなければならない。」と定めている。治水が整備され、現在は殆ど浸水の恐れがなくても、河川法が適用される地域では、新たな工作物の建設は難しい。何十年、あるいは何百年に一度の可能性がある増水の流れを妨げないための規定だという。
 しかし、管理する建設事務所によれば、湯谷の土地は既存宅地ですでに住宅が建設されているため、川との境界から4mの範囲に工作物や建築物は許可されないとのことだが、建築物はさらに厳しい自然公園法の敷地境界から5mが適用され、工作物については、自然公園法には規定がないので、河川法が適用されることになる。
 いずれにしても、自然公園法や河川法が適用される地域では、更地に新築しようとすると、不可能ではないだろうが、様々な困難が待ちかまえていることは容易に想像できる。そのため、契約前に十分な調査と確認が必要となる。そういう私にして、十分に調査・確認したつもりが、契約後に思いがけないことが発生する。
 例えば電気の引き込みだが、土地売買時に提示される重要事項説明書では電気は直に利用可能な施設(説明時において、現に利用されている施設及び利用可能な状態にある施設をいう。例えば、直前道路まで施設管が配管されており、道路所有者等の承諾を要せず、いつでも敷地内に引込める状態にあることをいう。)と表記されていた。ところが、10年ほど前まで、実際に人が住み、その上その敷地に引き込みのための電柱が立っているにも関わらず、引き込みの許可を得るだけでなんと2ヶ月を要し、一時は許可が下りない可能性があるのかと心配したほどである。
 電気の確保がなんとかかなうと、次なるライフライン「水」の確保である。ここでは井戸水に頼るしかないが、電気がなければ既存のポンプのテストもできない。通電後ただちにスイッチを入れるが、案の定古いポンプは動かない。やむなくポンプを発注。ライフラインの確保はかくのごとく、牛の歩みである。



井戸(奥に見える円柱)と湯谷の春

ポンプの設置完了。蛇口を捻ると微かな機械音とともに、勢いよく水がでる。一安心だが、次は水質検査である。
良質な地下水なら、殺菌用の塩素(カルキ)も含まれず、必ずや水道水よりもおいしいだろう。年中変わらず一定の水温を保つため、夏は冷たく、冬は温かく感じ、水仕事には有難い。ポンプの電気代はかかるが、ほぼ無料。災害時でも水は確保できる。と良質な地下水ならばメリットは多い。と理屈では理解している。
 しかし、この土地から湧き出す水は本当に飲用として良質なのか。すでに長年使われた井戸だが確実な水質検査をした上で使用されていたかは不明である。この先この井戸水を飲用として継続使用するとなると、いくら透明できれいな水に見えても、見えないものへの恐れはつきまとう。
因みに、平成16年度の厚生労働省の調査によると、定期的に水質検査を実施している井戸は、約6%に止まり、水質基準に適合しない水も多く、一般細菌数等の不適が26%、重金属等の不適が7%となっている。
 水質検査となれば、まず考えるのが保健所である。迷わず電話した。まず最初の保健所は担当者が席を外しているので時間を改めての電話を求められた。一時間ほど後の電話で説明を受ける。検査の手順は、保健所で指定の容器を受け取り、容器に水を採取しその日の内に保健所に持ち込む必要がある。その後検査結果を聞きにと、つごう3度保健所に出向かなければならない。その上、検査は1週間に一度決められた曜日だけ、それも事前の予約が必要と、さすが官庁、なかなか面倒くさい。
検査費用は幾つかの保健所に問い合わせたところ、おおむね一般検査10項目(1年に一回以上定期的な検査が必要な項目)で約9,000円、それ以上の検査を追加すると1項目1,000円である。
 ところが、なにげなくネットで水質検査について調べると、水質検査は厚生労働大臣の登録を受けた民間の水道水質検査機関でも行っている。費用も保健所の3分の2ほどですむ。その中には、試料の送料も含まれ、ネットで依頼すれば、採取容器と保冷用のバックを送ってくる。依頼主の作業は水の採取とクール宅急便の取り扱い所に一度出向くだけ。試料に貼るシールにはこちらの名前ほかの情報もすでにプリントずみ、しかも、宅急便の宛先もプリントされているという、至れり尽くせりのサービスである。



水質検査セットと浅井戸ポンプ・流し

それにしても、なぜ行政のサービスは民間に比べこれほど低いレベルに止まり、その上、高額なのはなぜか。水質検査の実施率が低いのは、このような行政の姿勢とおそらく無縁ではない。
念のため書いておくが、このようなことを指摘するためにネットを調べたのではない。しかし予期せずとはいえ、このような事実に出会うと、残念ながら「事業仕分け」の必要性は否定できなくなってしまう。
 10年ほど使っていなかった井戸のため、水道法に基づく水質基準50項目の内、初回は先の10項目+金属検査12項目をお願いした。因みに22項目検査で13,000円。検査する金属類は自然界でも検出されるが、残りの項目は工場や廃棄物などが汚染の元となり、周辺にそのような施設がない場合には、まず検出されない とのこと。
結果は適とされても年1回以上の定期検査との付き合いは長く続く。かくもライフラインの確保は悩ましい。まもなく結果が出る。楽しみと同時にいささか不安である。


▼2010-05-11 12:36
鉄道の魅力。〈湯谷の家「改装」プロローグ〉

先週の日曜日。始めて飯田線に乗って湯谷の家まで出掛けた。

8時12分豊橋発。3両編成の車内はゴールデンウイークが終わったとはいえ、以外とボーイスカウトやハイキング客で賑わっていた。一日一本の特急を除けば、全てが各駅停車の飯田線は、駅ごとにゆっくりと時間をかけながら走る。自動車で走るのとは一味違う時間が流れていく。沿線の家並みが(というほど続いてはいないが)、車で走るより、遙かに近く感じられる。民家の庭を通っているような不思議な距離感、これが鉄道の旅の魅力なのだ。旅が道中であった線の時代から、出発地から目的地へと、点と点を結ぶ旅になってしまった。これが特急だと、同じ飯田線でも違う。発車して、しばらくは車窓からの景色を眺めるのだが、やがてスピードに目がついていけず、瞼が閉じてくる。便利さと効率の必要は否定しないが、昔、こんなコピーがあったことを思い出している。「狭い日本、そんなに急いでどこへ行く。」



身近にせまる新緑と蛇行する線路。野田城。長篠の戦いで名誉の死、強右衛門ゆかりの鳥居。そして長篠城と戦国時代に名を刻む駅名が続く。5月5日の「のぼり祭り」の幟もまだ片付けが終わらずあちこちにはためいている。9時32分湯谷温泉駅に到着。



駅に着くと改札に車掌さんが走ってくる。



湯谷温泉駅

1時間20分掛かった。車ならば1時間である。家から豊橋駅まで歩いて20分。湯谷温泉駅から湯谷の家まで10分。合計、1時間50分。待ち合わせの時間を加えると2時間。丁度倍である。料金は一人740円。リッター6kmと燃費が悪い上にハイオクの我が家の車ならば、行程36kmはリッター140円とすると840円。一人ならばなんとか帳尻があう。二人だと車に軍配があがる。その上時間も掛かるとなると、鉄道に勝ち目はないようだ。しかし、効率だけが全てか
 予定通り、古い家具を寄せ集めて作っている棚に、シンクを埋め込み、流しを設置。



3時44分の上り豊橋行きに乗る。ホームの前は梅林だ。新緑に梅の実がふくらんでいる。初春には花の香りが迎えてくれる。



はためいていた幟もなくなっていた。5時20分帰宅。無事、笑点の放映に間に合った。やはり、日本の鉄道は正確だ。これは車ではかなわない。


▼2010-05-24 10:59
湯谷の家「改装」1

湯谷の家の改装を自力で始めたが、なにせ、還暦親父の日曜大工、遅々として進まないが、やっと少しだけ見せることができる。
 まずはパッチワークの床。アトリエに残っていたあらゆる木材をかき集めて、大小構わず、樹種の硬軟も一切構わず、大工仕事の稚拙さによる床材の厚さの違いにも決意はゆるがず、僅かな隙間には目もくれず、とにかく床下を隠すことだけを目指した数日。こんな非効率的で経済性もないことに、挑む人がいないことに納得。そしてアトリエ内の端材の多さにも驚き。



床は全てが完成後にワックスを塗って仕上げる予定。机はまだ板のまま。最終的には脚をつけようと思っている。数年前に出版した生け花の本「花頌抄」の撮影のため買い求めた家具類がたまって、アトリエを占領していた。この機会にまとめて一つにして、湯谷の家のキッチンにすることにした。積み重ねて、開いたスペースには、古い扉と引き出しを調達。サイズをあわせ、それでも埋まらないスペースは引き出しを作って調整。





シンクはステンレスのミニキッチン用を調達。壁は思案中。まだまだ先は長い。
 まだ日が高い(雨で太陽はでていない)が、今週はここまで。温泉につかって食事をして帰宅すると 笑点には間に合わないが、温泉「ゆ〜ゆ〜アリーナ」は歩いて5分。人間、目先の誘惑には勝てないものだ。
 露天風呂にゆっくりつかり、ホールの足裏マッサージに座ったら、隣のテレビで笑点が始まった。今週も良い一週間だった


▼2010-08-16 13:13
湯谷の家「改装」2

この夏は湯谷の改装に追われていた。週末の作業だけなので遅々と進まず。永い間ブログの更新を怠けてしまった。まだまだ、完成にはほど遠いが、ここらで中間発表。
 これまで多くの建物をデザインしたが、施工は職人さんに委ねてきた。デザインとは「機能や生産工程などを考えて構想すること。」であり、一種のマニュアル作りでもある。指示できることは、一般的な職人の経験の範囲に限られ、図面で創造性や熟練度は指示できないし、職人にそれを期待してもいけない。
 他のデザイン分野も同様で、職人の呼び名が流行りの「カタカナ」に変わったとしても、その実態が変わる訳もない。建築を規格・量産化し、ビジネスとして機能させるには不可欠だった半面、最近のデザインは美しすぎ、その上無菌になった。手触りというか、美術でいうマチエールに欠けがちである。作家の私と、デザイナーの私が葛藤し、もどかしさと、欲求不満が募り、時に、それらを無視してみたくなる。
 今回の改築は私自身が納得すればいい上に、自力での施工も可能な規模である。これまでのように第三者の職人に伝わるようにとの、細かな配慮や図面は不必要となり、イメージと仕上がりの違和感もない。(いささか技術不足ではあるがノ。)いざ始まると実に楽しく、週末が待ち遠しい。しかし、体力的には大変で、めげそうな体を叱咤している。
 最初の作業は約十年の閉め切りで、床が抜けてしまった八畳の和室を板張りにし、同時に台所との境の壁を抜き、ワンルームとした。
 河の石を束石として床を組み、床板は長年の間にアトリエに貯まっていた木材でパッチワークし、長い間に買い求めた古い家具を組み合わせ、流しと収納にしたことまでは既に書いた。
 古い家具なので一部建て付けは悪いが、何よりも見てくれを重視するオーナー(私)故、問題はない。効率重視の社会から、そろそろおさらばするための田舎暮らしでもある。



壁もまた、アトリエに大量に残る和紙の端切れを重ね張りした。それまでの力仕事に比較して幾分楽になったが、脚立の乗り降りは、この夏きつい。
 内部建具も既設の襖類に和紙を重ね張りした上に色紙や反古紙を張る。壁に和紙を張る仕上げは茶室以外ではあまり見かけないが、韓流ドラマで見た民家の風情と重なった。



土壁は陶芸の残粘土に、砂を混ぜ、やはり残り物の荒縄や麻袋を切って入れ、最後に洗濯糊を混ぜ込んだ。それぞれの配分や練り具合は、全くの適当である。本来、藁は長い時間漬け込んで繊維を柔らかくして使うものだろうが、そんなセオリーにお構いなしが生み出す結果が面白い。それにしても堅い上に捻れがあり、押さえつけても飛び出し、塗りにくいことこの上ない。しかし、塗り易いことが、結果に直結するとは限らない。独りよがりのオーナーの評価は二重丸である。



これまでの作業に使用した材料の殆どはアトリエの片隅に眠っていたものばかりだ。美術(には限らず、現代の生産活動)とは、かように様々な材料を消費し、大量に無駄を排出するものだとしみじみ実感する。
 既設の玄関にあった狭い土間を、同じレベルの板張りにした。当然、入り口の高さはそれだけ低くなる。韓流ドラマでは、民家の出入りは頭を屈めて入るように見える。茶室の躙口もそれを朝鮮から導入したものだと、都合よい解釈をしてしまう。
 極力既設を再利用する方針だが、アルミ製木目プリントの玄関ドアだけは廃棄し、少し小さめの古いガラス戸の回りに、アトランダムに木を打ち付け引き戸にした。鴨居は電動鋸で何回も切り込み溝を彫る。見本で頂いた梁材を上がり段と靴脱ぎに使う。雨が当たり、その内朽ちて馴染んでくるだろう。今は少し立派だ。



玄関戸は建物の顔である。オーナーの家族の評価も上々。照明はまだ既設のまま、これも自作する予定だが、それはまた


▼2010-08-23 11:05
あかり

照明もまた一つの彫刻である。違うのは内部に光を入れる空間が必要なことと、光を透す素材でなければならないことだが、時に光を透さない石なども使用し、その隙間から洩れる光を利用する。
 最近、建築の仕事をする度にその仕上げに照明を手作りすることが多い。枝を組み合わせ、和紙を張る。スイッチを入れると、和紙を通した柔らかい光と不規則な枝のシルエットが心地よい。
 古来より人はあかりの周りに集まった。暗闇のあかりはそれだけで人の心を呼び寄せる力がある。彫刻としての「あかり」の怖さは、光を入れればそれなりに機能してしまうことである。それがため、彫刻として自立することは簡単ではない。枝も和紙も同様である。素材そのものに魅力がある。「素材を活かす。」その言葉は優しいが、活かしているのか、頼っているのか、その判断は難しく、紙一重である。
 絵画でマチエールという言葉がある。絵画とはある一定の秩序で集められた色彩によって覆われた平坦な面といえる。その結果もたらされる絵肌がマチエールである。彫刻では素材そのものがすでにマッスではあるが、それを一定の意味を持つマッスとして形成することで彫刻となる。魅力的な素材を組立、積み上げ、空間を占拠するだけでは彫刻と言えない。
(寄稿 景象・表紙の言葉 84〈彫刻としてのあかり〉より)

「湯谷の家」でも幾つかの照明を作った。全て既設の器具を使用し、カバーを枝と和紙で制作し付け替えた。蛍光管や電球も既設のまま、順次、色温度の低いものに変えていく予定。



玄関のあかり



台所のあかり。壁にかかるコラージュは27歳のころの作品



和室のあかり



和室天井のあかり。軽く空間に浮遊した感じが気に入っている。



廊下のあかり



トイレのあかり。昔よく見た、袖壁やたれ壁の間に電球が入った照明のカバー。

照明のカバーを変えるだけで空間が驚くほど生き生きしてきた。部分を寄せ集めただけでは全体にならないが、さりとて、細部のディテールはあなどれない。


▼2010-09-02 14:36
湯谷の家「改装」その3

盆過ぎの「湯谷の家」の中間報告には、一日に約60名の方が訪れた。楽しい時間を過ごしたが、週末に二人を想定した家なので、トイレのタンクが一杯一杯、設置以来の蓄積もあり、あぶなかった。初めての田舎暮らし、色んな事がある。
 風呂場に湯沸かしとシャワーの設置が終わり、内部はおおよそ完成。これからも、作業は延々と続くのだろうが、一応の区切り。
 これまでも部分的に紹介してきたが、再度撮影。



形ばかりの門と敷石、前に住んでいた方が川から上げた石が敷地内に点在、それを集めて利用したもの。



門を振り返って見る。



玄関前の敷石。庭木を避けると調度よい曲がり具合。



玄関引戸は小ぶりなサイズが気に入っているのだが、慣れない高さに頭をぶつ人が続出。最初は私も数回ぶつけたが、最近は大丈夫。頻繁に遊びに来ていただいて慣れていただくことにしよう。



この夏は本当に暑い。ほぼ真西に向く玄関に、手持ちののれんで日差しを避けることに、



狭い玄関。低い引き戸。細い障子窓。



玄関戸は古い小さな引戸の回りに枠をつけたもの、間仕切りの竹格子は蚕の養殖に使ったもの(?)を再利用。



八畳の和室を板の間に、台所と合わせてワンルームに。軸を飾り、絵を掛け、花を生け、古く、小さな仏様も安置し、やっと落ち着いた空間に。



床はアトリエに残っていた板を集めてのパッチワーク。板厚を揃えることも、組み合わせることも、本当に大変だった。仕事では不可能だろう。



部屋より宇連川を望む。既設の庇には、ホームセンターで買った葭簀を張る。座って、流れる川面が見えるのだが、写真では見えないのが残念。
 この土地は東に宇連川、西に飯田線に挟まれ、国定公園法と河川法の適用を受け、重機の進入は不可能。新しい土石の搬入も、新築もなかなか難しい。つまり、あるものの再利用と人力で簡単に搬入できるもので、改造しなくてはならない。その制約が、これまでなら思いつかない結果を生み出している。


▼2010-09-14 11:53
湯谷の家「改装」その4

これしか仕事をしていないと思われそうだが... 相変わらず、湯谷の家の改装の話題。実のところ、秋の個展がせまってきて、今年は、東京での発表も同じ10月の末に重なり、内心、怯えているのだが湯谷の家のことが頭から離れず、我が心をいささかもてあましている。
 そこで、本題に、先々週の末から、宇連川を見下ろす庭の手入れ。はびこっていた雑草と蔓草を取り除くと、下から現れたのは大量の敷石。それらを一度撤去し、円形に敷き直す。最も大きく平らな石は縁側の踏み石にする。



左、円形に敷石。右、風呂から庭を見る。この二つの写真はほぼ繋がった景色。
 風呂にはシャワーを新設、永い締め切りで傷んだ窓を取り替えた。窓枠の傷んだ部分をカットし、あり合わせのガラスのサイズに合わせて、窓枠の割り付けを決める。
 この家の改装のテーマは素材の再利用。風呂に入りながら、川の流れを楽しむならば、透明ガラスの嵌め殺しで、換気は別に取るのが、最も簡単で、普通の解だろう。しかし、捨ててきた、方法、素材は本当に、つまらないものだったのか。
 「あり合わせの素材の再利用」のテーマがなければ、こんな窓枠の割り付けには行き着かない。これが、この家の改装の面白さである。
 「円形の石組み」しかり。偶然出合った石の形状と量。国定公園法で土砂は他から持ち込むことはできない。動かす事の出来ない、既設の家と景観。それらの自然な組み合わせが、生み出す結果である。
 最後に最も重く大きな石を崖の縁まで運び、川を座って眺めることのできる位置に据えて、敷石の配置はおおよそ完成。


▼2010-11-10 11:51
湯谷の秋

先日、日本写真家協会会員の新村猛氏が湯谷の家を訪れ、取材をかね、沢山撮影されていった。その写真が昨日届いた。湯谷の家の秋がよく分かるので一部を紹介させていただく。



湯谷の家にはJR飯田線で豊橋から約1時間。湯谷温泉駅下車徒歩5分。車でも国道151号で豊橋から約1時間。

若山牧水は鳳来寺紀行で湯谷温泉について次のように書いている。
「改札口で温泉の所在を訊くと、改札口から廊下續きの建物を指して、それですといふ。成程考へたものだと思つた。湯谷ホテルと呼んでゐるこの温泉宿はこの鐵道會社の經營してゐるものであるのだ。何しろ難有(ありがた)かつた。この大降りに女連れではあるし、田舍道の若し遠くでもあられては眞實困るところであつたのだ。
通された二階からは溪が眞近に見下された。數日來の雨で、見ゆるかぎりが一聯の瀑布となつた形でたゞ滔々と流れ下つてゐる。この邊から上流をば豐川と言 はず、板敷川と呼んで居る樣に川床全體が板を敷いた樣な岩であるため、その流はまことに清らかなものであるさうだが、今日は流石に濁つてゐた。濁つてゐるといふより、隨所に白い渦を卷き飛沫をあげて流れ下つてゐた。對岸の崖には山百合の花、萼(がく)の花など、雨に搖られながら咲きしだれてゐるのが見えた。その上に聳えた山には見ごとに若杉が植ゑ込んであつた。山の嶮しい姿と言ひ、杉の青みといひ、徂徠する雲といひ、必ず杜鵑(ほととぎす)の居さうな所に思はれたが、雨の烈しいためか終(つひ)に一聲をも聞かなかつた。」



湯谷ホテルはすでに閉鎖されたが、駅前に数軒の温泉宿が並ぶ。その温泉街を左に、つまり川の上流に向かい、踏切をわたる。踏切の表示は豊橋駅から38k569m。湯谷の家はその先にある。



敷地のあちこちに散乱していた石を集めた露地。アトリエと裏庭に飛び石でつながる。



始めての秋。やがて来る冬に備えて取りあえず自作した移動式の囲炉裏。これだけで冬を過ごせればよいが、寒さに応じて暖房は追加しなければならないだろう。



荒れた敷地の整備で最初に手がけた仕事が、邪魔な木の伐採。その杉の木で作った椅子と机。家の内部を改装中はここが休憩と食事の場だった。今は役目を終え、森の中に移動した。



荒れ放題の裏山だったが、やっとインスタレーションも可能な空間を確保した。





後ろを流れるのが宇連川。先の若山牧水が「板敷川と呼んで居る樣に川床全體が板を敷いた樣な岩であるため、その流はまことに清らかなものである」と書いた別名「板敷川」の秋。



河原に降り上流を見る。飯田線の隧道が抜ける山の姿が美しいが、山の名前が分からない。



家の改装が終わったらここに穴窯を築こうと思っている。薪は今から準備している。



愛する妻の由美子さんと孫の旭。新村さんありがとう。


▼2011-03-22 13:28
湯谷の昼食

湯谷にも少しだけ春が近づき、雑草に被われる前にと、敷地の手入れを始めている。集めた枯れ草や枯れ枝を燃やした残り火で、お餅とおにぎり、葱を焼き、缶詰を暖めて昼食にする。



不謹慎だが、震災の避難所のニュース映像で見たような光景だなと思ってしまった。しかし、同じ粗末な昼食でも、私はこの昼食を選ぶことができたし、暖かい日差しの下だ。いかに自由が掛替えのないものだと改めて教えられる。
 毎日、公共広告なる映像がテレビ画面にしつこく流れている。かねがね、この手の広告のメッセージに、偽善的な匂いを感じて好きになれなかったが、繰り返されることで、押しつけの正義が鼻につく。あんな映像の変わりに、被災者にとって有意義なものを流したほうがいいと思いながら、毎日不甲斐なくテレビを眺めている。


▼2011-09-26 10:54
15号台風

先週の15号台風が各地に相当な被害を出している。豊橋に上陸しそうだと、心配して連絡をいただいた。その時は大丈夫と答えたが、風がおさまり、雨も一段落して、落ち着いたたころに、鳳来の湯谷の家が床上浸水の連絡があり、いささかショック。翌早朝、とにかく見なくてはと急行。床上約2cm。幸い、ザッと見て、大きな被害はない。心配していた汚水の臭いもない。不思議なことに床上僅か3cmほどしかない押し入れや、家具のなかは水どころか湿気もない。敷地内の彼岸花も水没した筈なのに、何事もないかのごとく、きれいに咲いていた。



取りあえず一安心で、その日はそのまま帰宅。最大の被害、チェンソーの水没はさっそく農機具屋さんに届ける。そこでも、農家のトラクターの水没修理が殺到しているとのこと。定期点検もかねて、チェンソー2台と草刈機をお願いした。この点検代4,200円と、流れてしまったバケツとじょろと囲炉裏に使う炭2箱。それに改装で余った木材。将来の窯焚に貯めていた薪が少し。合わせて、直接の被害総額は今のところ20,000円弱。とりあえず、この水害に老後を脅かされる心配はなさそうだ。敬老の日が終わったばかりというのに老夫婦二人で後始末。床を何度か拭き掃除。床下には扇風機で強制換気、これは浸水に関わらず、湿気取りのために続ける予定。川の水が引き出して気がついた。河原の地形がまったく変わってしまっている。訪れたことのある方は違いが写真でおわかりだろうが、河原に巨大な中州ができていた。



中州に立ち、上流を見る。



中州から湯谷の家を見上げる。

川辺に大きな流木が漂着している。そのうちに流失した薪にとって変わるだろう。
 湯谷の土地は川に面して60m以上あるのだが、それよりも遙かに長い。これから冬にかけて一段と水量が減る。どこまで中州が広がるのか今から楽しみにしている。この中州、私の土地からしか降りられない。勝手にプライベート河原と呼ぶくらいは、被災者のささやかな権利として大目にみていただこう。のんびりと2日でほぼ大掃除終了。遅れていた墓参りも無事すませ、河原での楽しみが増えたことで、今は、少しだけ得した気分になっている。


▼2011-05-06 10:26
湯谷の春

ゴールデンウイークの数日は湯谷で過ごした。とは言っても、ゆっくり過ごしたわけではない。すっかり春になり、元気になった自然の猛威に被われてしまう前にと、敷地の手入れに追われてしまった。入口の作品も春紫苑に埋もれて良い具合。そのため、草取りもできない。そうこうする内に雑草に被われてしまいそうだ。



桜も終わり、河のせせらぎも新緑も今が盛りに美しい。





回りに花を欠かすことはないのだが、わざわざ紹介するのは気恥ずかしかったが、新緑にさそわれ、久しぶりに生け花を写真に撮った。



花の名は分からないが、長い枝に小さな花がついていた。長い枝を四等分に切ってそのまま壺に投げ入れた。こんな活け方もあっていい。


▼2011-10-11 16:34
河原のアトリエ

台風の増水で湯谷の家が床上浸水したことと、河原が大きくなったことはすでに書いた。河原はその時より水量が減り、さらに大きくなっている。自然の力には唖然とさせられる。





この連休は河原の倒れた木や竹を切り開いて整備した。そのため、河原と川岸が見違えるほど広く感じられる。岩盤を敷き詰めたような板敷川の川底も間近に見える。



増水で流れ着いた流木は、最初薪にするつもりだったが、よく見れば樫の木でまだまだしっかりしている。作品にしようと、さっそく河原をアトリエに制作を始めた。広々とした河原は誠に気持ちよく仕事がはかどる。昼食も河原にした。解放感があり実に爽快。
 通常、午後3〜4時の間に湯谷の作業を中止して豊橋に帰宅する。もちろん、笑点に間に合うように帰るのだが。その頃になると山の陰に日も沈んでしまう。



まだ作品は完成していないが、自然の中で作品がいつもより息づいているように感じる。いつかこの河原で作品展を開こう。心配なのは急な増水。流木の砂利に埋もれた部分はチェーンブロックで持ち上げ、必要な部分に切り分けたので増水すれば流れてしまう。制作途中のものだけは勘弁してほしいと、ロープでしばって帰ってきたが。縄をほどいて逃げ出さないか心配である。


▼2011-11-28 13:49
抜根

最近、湯谷の家で庭の手入れを始めた。まずは、不必要な木の伐採だが、抜根が一苦労。チェンソーを使えば木を伐るのは簡単だが、持っているチェーンブロックは500kgのもの。それでは少し太い根の抜根はできない。回りを堀り、太い根を伐り、頃合いをみてチェーンブロックで抜くのだが、それでも根が生きている抜根は大変だ。それで、1tのものを注文した。それが今日届いた。中国製で1500円。送料が1480円。驚くほどの安さだ。今週末が楽しみである。




▼2012-06-17 09:27
パノラマ「湯谷の家」

湯谷の家のデッキを、現在の1間巾から3間に広げることにした。作業初日の16日はあいにくの雨。荷物を片付け、半日の作業でハ1間分が完成。写真中央の白く見えるデッキの部分が完成したところ。



デッキだけ撮影するつもりだったが、梅雨の雨であたりが靄り、不思議な気配が漂っていた。
そこで、湯谷の家を中心にパノラマで撮影。私の後を流れている宇連川が写真では両端に写っている。
 来週末には残りの部分も完成ノ 予定。この夏からは、流れる水を眺めながら、岸辺生活を楽しむノ 予定。ハ8月、この地で行う現代美術展「田ノ島39」にも役立つだろう。
 夏の間は少なくとも毎土曜日には湯谷に出掛け緑と水に囲まれ、作品制作をするノ 予定。近くを通ったら、お寄りください。


▼2012-06-27 12:17
デッキ完成

先週土曜日にデッキの残りを制作。一応、塗装まで終了。デッキから北の林が見えるようになり、格段に見晴らしと風通しが良くなった。



 台風の影響で宇連川は濁って流れている。昨年の床上浸水のことが頭を過ぎったが、あんなことは、20年に一度の出来事だと地元の方はいう。すると、次の予定は、80歳をとっくに過ぎている。
 その頃には、自然の中で生活する気力も体力もないノ だろう。残り少ない時間を、気楽に過ごしたいものだ。と思っているのだが、最近、体力の必要なことばかりしているような気がする。なかなか、思うようにはいかないものだ


▼2014-06-02 12:49
2014最初の草刈り

熱中症を心配しながら、今年も草との戦いが始まった。しかし、烏野豌豆がからまり、予定よりつらい。不思議なことに、昨年までこんなに烏野豌豆は、群生していなかった。
 翌日、「畑から宇宙が見える」川口由一と「自然農の世界」新井由己著を、偶然呼んだ。



田畑を耕さず、刈った草をそのままにしておくと、1年目、2年目とそのときどきの地力にふさわしい草に生え替わっていき、その下の土はフカフカになる。そして、4年目になると烏野豌豆が目につくようになるという。
 考えてみれば、湯谷の家を手に入れ、草との戦いが始まってから、4回目の夏である。毎年、刈るたびに草の種類が違っていることに、気づいてはいたが、その理由がやっとわかった。
 勘違いされては困るが、地力がついたからと言って農業をやろうということではない。ただ、教えられただけである。

草刈りも終わり、きれいになったところで、鉄板と石を積み上げてみた。



タイトルは「水平になるための法則」
湯谷の家のアプローチにおいた、小さな作品もよくなじんできた。遠くに「水平になるための法則」も望める。



湯谷の家はこれから、とっても良い季節を迎える。


▼2014-06-09 10:24ハ
にわか百姓です

百姓とは、今では差別用語で、放送禁止用語らしい。網野善彦によれば、そもそも、百姓とは農民を表す言葉ではなく、古代には「百姓」と書いて、「おおみたから」あるいは「たみ」と読まれ
 「郡司・百姓・不善輩」という用法もあり、官職・位階をもった官人・郡司と犯罪者や賭博などに興じる人をのぞいた「普通の人」を指す言葉。
 百には「あらゆる」の意味があり、性には、血縁集団や、職能を表す。つまり、あらゆる性を持つ人々、あらゆる職能が本来の意味で、農民の意味はまったく含まれない。
 それが「農民」を指すようになったのは、年貢が、基本的に水田・畠地に賦課されたことにより、百姓を農民と思いこんでしまったのだ。中世には「地百姓」という言葉は、「都市民」を指していたという。それが、とうとう放送禁止用語にまで、落としこまれてしまった。最近の言葉狩りには困ったものだ。
 そんなことはどうでもいいのだが、湯谷の家には毎週土曜日にでかける、最近昼食を麺類にすることが多く、敷地に葱などを植えておけば、薬味を毎回持っていかなくてもいいと、気楽に喋ったところ、妹から,葱だけでなく、南瓜、ごうや、茄子、西瓜、紫蘇などの苗を諸々もいただいた。

そこで、草を刈り



苗を植え



にわか百姓のまねごとと相成った



しかし、心配は猪、はたして収穫までたどりつけるか。さりとて、プロの農家でもないのにフェンスまでつけるのは、徒然草のように「少しことさめて」しまう。あてにすることもなく、百姓の本分でもある「都市民」で「普通の人」の楽しみに止めておこう。



そうそう、湯谷の家の横を流れる沢には、山葵も生えている。蕎麦を持参する友は遠来からでも、歓迎いたしますぞ。


▼2014-09-08 15:22
木漏れ日茶会準備着々

木漏れ日茶会で点心に、薪で炊いた微かに焦げの香るご飯を出すにつき、50年ほど前まで現役だった釜はあるのだが、木蓋がないとのこと。そこで、益子の友人キンタに厚板を頼んだら、樅の木の厚板が早速届いた。当然だが、そり止め兼取っては、ついていない。しかたなく先週末に頑張ってみた。



釜の直径が37cmと22cmの2種。木蓋の一つは直径が42cmと、かなりの大きさ。溝を穿って組み合わすという技は持ち合わせていない。そこでビスと埋木で制作。前日には、竈も耐火煉瓦で作らなくてはならない。と、こんな具合に茶会の準備は着々とすすんでいる。ぜひ、お越しください。
 ここからは、まったくのつまらない話。(ここまでもたいした話ではなかったがさらに)
野菜の苗を沢山いただいて、湯谷の家に植えたことはブログでも書いたが。西瓜がやや大きくなり、縞模様も濃くなってきた。(実は、これまでも、葱、オクラ、ミニトマト、茄子などは本当に僅かだが収穫できていた。)しかし、初めてで、収穫時期が分からない。来週では遅いだろうと試食。直径が18cmほどの小さな西瓜は、少し早かったが、中心の甘みは充分だった。



手入れもしなければ、肥料も与えず、ただ、大きくなれ、そしたら、食べてやると、たまに見てやるだけでは、反抗したくなるだろうし、西瓜にとって、鳳来町は気温が足りないし、昨今の天候不順では甘みものらないだろうが、それでも、自堕落の俄百姓は楽しいものだ。そうそう、薪で炊いたご飯は、ゲーテ高橋さんの野草料理で楽しめます。