▼2014-05-29 11:04 顔に見えてしかたがない 「そう」41号の「形の旅」で、ふと出かけた鳳来湖で、仏頭に見えた岩を紹介した。 ダム湖に姿を見せた仏頭 豊川は愛知県北設楽郡設楽町段戸山を源とし、長篠城址付近で宇連川と合流したのち、豊橋平野に流れ、三河湾(渥美湾)に注ぐ。流域はかつて旱魃に悩まされ、東三河の水瓶として造られたのが「宇連ダム」で、せき止められた人造湖「鳳来湖」は渇水期にはしばしば干上がり、平成二十五年八月にはとうとう貯水量が一%を切った。 湖底には、建造物の一部や、建設時に伐採されたであろう大量の切り株が姿を現し、ダム湖最奥部には、設楽の火山活動の終末期、大地のひび割れに染み込んだ溶岩が急速に冷えた層状の硬い岩、岩脈(鳳来湖第十岩脈)もその全貌を見せていた。その延びる方向は大地に加わった大きな力の方向を示し、日本列島の成り立ちの謎を解く鍵となるという。 清らかな流れが復活した鳳来湖第十岩脈周辺の河原に、額から直線的に伸びる鼻、顎を張り凛としてたくましい、奈良・興福寺仏頭を彷彿とさせる大きな横顔が、台風一過の青空を見つめていた。 そこから、わずかに下流、水がダム湖を満たしていれば、その吃水の辺りに、あたかも発見当時はイースター島の石造彫刻・モアイもこうであったかのように、倒れた横顔の小さく円な瞳は、ダム建設時の削岩機のドリル痕にも見え、悲しさをたたえていた。 ダム堤頂に戻ると、その横の崖の金網越しに正面を向いた顔を発見。この顔は、牢に押し込められたかのようにも見えた。はからずも二時間足らずで、三つの顔に遭遇した。出会いはいつも前触れなくやってくる。 以来、道を歩くたびに顔が、気になってしかたがない。この現象はこれまでも様々に紹介されているが 私も気まぐれにその仲間入りと、最近は、その都度、写真に残すようにしている。 豊橋市の前芝海岸で拾った船板。板の朽ち方が気に入って、花を生けるときにでも使おうかと、持ち帰ったもの。 ▼2014-06-03 18:29 今日の出会い 長い間放置されていたのが原因なのだろう。湯谷の家で数本の木に腐れが入っていた。しかたなく、切り倒すことにした。その切り株を見たとき、大原美術館のジャン・フォートリエ「人質」の横顔を思い出した。 たしか、「人質」の連作は、第二次大戦中のパリ占領下のドイツ軍に捕らえられた、レジスタンスの悲惨な姿を描いたものだった。腐れかかった切り株は、どれも悲しそうな表情でこちらを見つめてくる。 原発再稼働のほんとの理由は、将来の核武装の技術保持のためという、記事を最近読んだ。ありそうな話で怖い話だ。 ▼2014-06-05 13:10 今日の出会い[2] 最近、何もかもが顔に見えてしかたがない。「そう43号」が発刊した。インクの匂いがする誌面を眺めていると、またもや顔が現れた。 野草料理・青みず」の青みずの葉先と茎のお浸し、撮影したときも、レイアウトしているときも、そんなことには気づかなかったのに、一旦そう見えると、そうとしか見えなくなってしまって、やっかいなものだ。 この器は長辺40cmはある大皿。手で延ばした粘土に、鋸の刃の切れ端で十字をいれたものその縦線が鼻筋に見える。その上、振りかけた鰹節が目玉に見えてしまうのだ。 しかし、確認しておこう。この写真は野草料理のためで、間違っても顔ではない。念のため、ゲーテ高橋さんの野草料理の人相図ならぬ「青みずの葉先と茎のお浸し」の解説を記しておこう。 湯谷田ノ島の川原の草むらの中で、隠れるように生えていた青みずは、平地の植林の北側の淵や、湿気の多い溝のふちに群がって生える一年草。 茎は根元の方から丁寧に皮をむき、二、三センチに折る。サッと洗い、少々の塩を入れ、茹でて水にさらすと見事な翡翠色になる。水切り後、器に盛り、薄味のだし汁で味付けし、鰹節を天盛りにする。シャキシャキとした食感と青みずの淡い旨味が、口の中に広がる。 葉はきれいな緑色で見るからに美味しそうだ。葉のみを摘み、水洗い後サッと茹でて水にさらし、灰汁を抜く、軽く水を切り、ザク切りにし器に盛る。薄味のだし汁をかけ、鰹節を天盛りにする。歯ごたえのある食感が心地良い。 なお、今回食した青みずとは別に、アオミズと呼ばれる山菜があるが、こちらの和名は「山時ほこり」。茎の上半身が一方に傾く。 青みずも、大きさ、葉の様子はミズナに似ているが、葉は亀の甲状で、ずっと巾が広い。茎は一方に傾くことはなく、全体に緑色で、太く水っぽい。 ▼2014-06-11 09:00 今日の出会い[3] 最近、よく歩くようになった。片道1時間程度は平気で歩くようになった。すると、これまで見えていなかった景色が、新鮮に感じられてきた。しばらく離れていたカメラを、手にもって歩くようにもなった。当然、シャッターを押す機会も増えてくる。最近はなにもかもが顔にみえてしかたがないことは、すでに書いたが、先週の週末も幾つかの出会いがあった。 最初は側溝の蓋。拾い物を探して、足下ばかりみているようだが、次も下水の蓋。うまい具合に片目に石がはまっていた。やらせも平気だがこれは違う。 梅雨の雨上がりのコンクリートブロックの塀。風抜きの松の形が福笑いのようでもあり、少し不気味でもある、少しは前を向いて歩けるようになったか。 最後は錆びて朽ちてしまった、スコップの柄。 どうしても足下を見て、マチエールにこだわってしまうのは、作家の性か、それとも貧乏性か、たいして新しいことでもないが、飽きるまで続けます。