ブログ 美術 アート雑話

▼2011-03-23 15:00
作品はどこいった

朝、新聞を取りに外に出て驚いた。そこに在るはずの鉄の作品がない。約70kgもあり、風に飛んでいくような代物ではない。この作品は豊橋のギャラリーサンセリテでの初個展で制作したものである。



写真はギャラリーサンセリテ個展会場 1990、無くなったのは前面の作品。一枚の鉄板を1/2に折り曲げ、その1/2をさらに1/2に折り、と 折れなくなるまで続けたもの。



この作業は様々な素材で現在も続けている仕事である。程よい加減に錆びが出ていただけに、残念。
 なによりも、頭にくるのはおそらく、持っていった方、乱暴に言えば「泥棒さん」は、作品として気に入ったのではなく、おそらく(限りなく確信がある)これが作品とは思わず、鉄70kgと思った犯行であろうこと。警察にも届けにくいし、注意を呼びかけて終わりにしよう。
「皆さん、人目につく金めのものは、玄関先に展示(放置)するのはやめましょう。ARTならぬ、犯罪者を作らないために。」


▼2011-06-09 16:50
「魅力ある美術館を創る」には

5月28日(土)に豊橋市美術博物館友の会記念講演会が、豊橋市役所講堂(13階)で行われた。講師は、金沢21世紀美術館を設計した「西沢立衛氏」。テーマは「魅力ある美術館を創る」。
 中日新聞によれば、建築界のノーベル賞と言われる、米プリツカー賞を昨年受賞した建築家の西沢立衛氏は、スライドを使い、自分が手掛けた美術館を紹介。
「金沢21世紀美術館」は、平屋の建物に複数の入り口を設け外面をガラス張りにした。
その意図を「開かれた美術館を意識した」。
官庁街に点在していた空き地を埋めるように建てた青森県の「十和田市現代美術館」は、
「街と建築、アートの連続した関係を目指した」。とあった。
 なぜ中日新聞を引用したかというと、私は講演を聴いていないからだ。案内を頂いたが、あえて出席しなかった。
 なぜならば、新美術館の運営方針が決定されていないのに、世界的な建築家を招いても、これまで設計した美術館の自慢話で終わることは目に見えているからである。建築家の話より、美術館の立ち上げ、運営の企画者から話をまず聴くことが、豊橋市の新美術館の計画には必要なのだ。こんな講演会を企画する姿勢が、姿だけは斬新だが中身のない箱物行政を生み出す。優れた企画とそれを運営する館長が決まれば、あとは優れた建築家にまかせればよい。必ずや、優れた美術館が生まれるだろう。ここからが「建築家西沢立衛氏」の出番なのだ。
 ところで、さらに前の話になる。浜松で金沢21世紀美術館館長の秋元雄史氏を講師に招いて、アートによる都市の再生と創造をテーマに、パネルディスカッションが行われた。ここでも講演は聞き漏らしたが、懇親会とその後の関係者の会食に参加した。その後、次の拙文を書いたのだが、訳あって、ブログには載せなかった。

浜松での美術館談義
出席者の話を聞いていると、秋元氏は現在美術界では飛ぶ鳥を落とす勢いの有名人らしい、そして、当然私とは初対面の筈である。しかし、氏によれば、氏とは吉祥寺の双ギャラリー開廊記念展で同じくし、頭文字が共にAのため、図録では並んで掲載されていたようだ。我ながら、人を覚える能力の欠如に呆れている。それも正確には翌日にギャラリーに確認し、詳しい事実を知ったというていたらくである。
 浜松にはどんな美術館が可能なのか、成功した美術館に憧れて、話は弾むのだが、話は結局は箱物作りに落ちていくノ
 建物や立地はもちろん重要だが、それ以上に重要なのが、企画の充実、有能な学芸員の確保。その前提として、館長への決定権を始めとした権限の集中が不可欠だ
 秋元の言葉で印象的だったのが「私は副市長クラスのポストで全権委任で招聘された。」「金沢21世紀美術館の建設費は驚くほど高額だ。」
 設計だけでなく、その後の展示企画にたいしても、美術館の運営には、断固とした決断力が必要となる。想像できる市民からの反対に対しても、決して揺るがない信念も要求される。革新的な美術館を作ろうとするのならば、その抵抗は生半可なものではない。一見、理解者と思われるが実は保守的な美術愛好家の存在も恐ろしい。多くの場合、善意の仮面を被っているから実に厄介である。そして、行政の担当者の無知と驕慢も付きものである。
 なぜならば、革新的な芸術が市民の賛同から生まれた例は殆どない。金沢の成功も実はその例にもれず、そのことは成功の影に隠れ報道されないが、「反対の嵐の後に勝ち取った成功」(秋元氏の言葉)なのだ。
 秋元氏の前任地、直島の美術館のモネにしても同じである。今でこそ、印象派の巨匠だが、印象派の名は否定的な意味で命名されたという事実だけでもそのことが理解できるだろう。革新的な芸術が現在のごとく市民権を獲得するに、実に100年の歳月を要したのだ。


▼2011-12-14 10:38
ATOKATAを見た。

一冊の本がブックデザインを担当された奥村靫正氏から届いた。氏とのお付き合い10年ほど前の講演会から。氏が午前中、私が午後の講演を担当、そこで始めて出合ったのだが、その後の懇親会で同郷の出身であることを知り、それ以来である。なんと私の現住地から見えそうなところに住んでいたうえに、驚くことに、共通の知り合い(女性)もいたのである。



届いたのは写真集「ATOKATA」。表紙の帯には「篠山紀信が全身全霊で向き合った東日本題意震災、3.11を境に表現の在り方が変わった。」とある。美しい写真集である。写されているのは創造主としての神の恐ろしいまでの怒りと、それが作り出した、激しくも美しい自然の姿である。




押しつぶされた家とそれに絡まる残骸はまるでフランク・ステラの立体作品のようでもある。
 これは報道写真ではない。おそらくカメラマンにとっては女性のヌードもタレントの笑顔も、そして被災現場も全て同じ被写体だったのだ。
 この写真集の評価は様々だろう。しかし、この写真集は、私に、この惨劇の現場に立ったとき、果たしておまえは、我を忘れず、美術家としての信念を貫けるのかという自分自身の生き方を問いかけている。
 被災現場に立ったとき私の心は、体は、どのように反応できるのか。どのような行動が正しく。自分自身にも正直な行動なのか。答えが出ずに現場には向かえない。しかし、まだ私には答えは出ていない。


▼2013-05-02 11:48
味岡伸太郎展 FIELD REPORT 2000

ブログを書く気持ちが起きず、とうとう二ヶ月も過ぎてしまった。書かなかった理由はある。昨年から始めていた、新しい明朝体の制作が佳境に入り。寝る間も惜しみ(ウソ)集中(これは本当)していたため、気持ちが他に向けられなかったのだ。まだ完成ではないが、今、一段落というところ。夏には新しい明朝体二種と仮名九種をセットにしてリリースする予定。その前に、途中経過をブログで(次からはさぼらずに?)紹介する。
 さて、本題は、5月2日、つまり、今日から始まったギャラリーサンセリテの常設展「味岡伸太郎展 FIELD REPORT 2000」のこと。



2000年に個展を開催した、サンフランシスコの高田ギャラリーが昨年でギャラリーを閉じることとなり、作品が帰ってきた。というより、その多くが、ニューメキシコに滞在してインディアン居留地で土を採取し、現地で制作したもの。つまり、アメリカ生まれの我が子が初めて、日本にやってきたようなもの。



高田ギャラリーでの展示。



ニューメキシコでの土の採取。
キャンバスだけは日本から運んだが、パネルは現地のホームセンターで材料を仕入れ、制作した。ニューメキシコは砂漠地帯、高温で、乾燥しているため、書いている内に乾燥してしまうという、日本とはまったく考えられない環境に面食らって制作したことを思い出す。それが、欧米で油絵の具が発達した一つの理由だろうし、日本の絵の具の基本が水性だった理由なのだろう。


▼2014-12-10 15:02
絵画はマチエールだ
豊橋出身の日本画家、中村正義の展覧会が豊橋市美術博物館で開催されている。



中村正義の大きな展覧会は、過去に幾度も美術館で開催されてきた。
 個々の作品を個々に見たとき、私の中村正義評は高いのだが、美術館での生涯の画業を網羅するような大規模な展示での評価は、不思議に、私のこれまでの評価は低い。幅広い画業を一堂にして俯瞰するとその幅広さがかえって、中村正義が生涯で、結局、何を表現したかったのかが
見えにくくなり、画家としての巧みさが、鼻についてきてしまうのが常だったのだ。
 しかし、今回の展示は福島県の故小松三郎氏の個人コレクションの展示ということもあり、比較的小規模な展示が、かえって、故小松三郎氏個人の目がコレクションに、しっかりと反映されている。そのため、中村正義の素晴らしさは、その描かれたモチーフではなく、結果としてもたらされる絵肌、つまりマチエールの美しさであることがよく伝わってくるのだ。
 歌手であれば、どのような詩を歌うのかよりも声質に惹かれ。小説家であるならば、どのようなストーリーであるかよりも、その文体に惹かれるように、絵画は、何が描かれているのかよりも、そのマチエールが最大の魅力なのだ。
 彫刻ならば、どのように美しい裸体像であるかよりも粘土を押しつける指の痕跡、鑿跡の強さ美しさに私は惹かれる。
 それは、歌ならばその第一声から、小説ならば最初の一行から、美術ならば見た瞬間に、全曲、全文を読むまでもなく、決定されてしまうのだ。
 そして、中村正義のマチエールの美しさは、初期の作品から生涯変わらないのだが、特に比較的初期の作からその美しさが伝わってくる。
 それは、小松氏が、まだ画家本人と面識がない時代に購入した作ではないだろうか。作品とコレクターの目以外の介在物が存在せず、コレクターの冷徹な目がそこに、純粋に反映されたのではないか。
 そして、今回の展示で比較的多数を占める、仏画、水墨画の作品に対して、少し違和感を感じるのは私だけだろうか。これらの作品は、小松氏と画家が面識をもつことになった、最晩年の作であることが、私はいささか気がかりだった。
 こんなことを考えさせられ、あらためて、マチエールの価値を教えてくれた。今回の「小松コレクション中村正義」展は必見である。最後になってしまったが並んでいた。書も素晴らしい。水墨画より書に惹かれた。
 現代美術のコンセプトは、この展示からは見いだせないが、現代美術と称するものには表現のないコンセプトだけの提示も多い。それでは美術ではなく単なる説明に堕する。現代美術はコンセプトに加えて、このマチエールに匹敵する力を、持たなくてなならない。


▼2015-01-19 14:04
忙しい週末

17日は、四季毎に旧鳳来町湯谷温泉近くの私のアトリエで開催している野草料理の会の試食会。
 野草を摘みながらアトリエに向かう。多米峠近くの林で平茸を採取していると、突然、隣の大木が倒壊。慌てて道路まで逃げると道路の片側が倒木で封鎖されている。直ぐに渋滞が始まる。行き掛かり上、110番し、しばらく交通整理。
 今日の収穫は春の七草は予定通りだが、真冬だというのに平茸、榎茸、木耳と三種類の茸。特に、平茸は危険満載な上、大豊作。
 昼近くにアトリエ到着。さっそく試食会。とは言っても、今日は来週の本番のための試食。採ったばかりの雑草を湯通し、正月の残りの餅を囲炉裏で焼くだけ。しかし、人はそれだけで充分に幸せになれる。
 帰りがけに、豊川市桜ヶ丘ミュージアムで開催されている「豊穣なるものー現代美術in豊川」を見る。幸せにもなれないし、豊穣でもないが、旧クリーニング店の古民家(長屋)のインスタレーションと旧豊川信用金庫の古い金庫の扉には存在感を感じた。(残念ながら金庫の扉は作品ではない)
 明けて18日。マフラーをミュージアムに落とし受け取りに出かける。最近、歩くことが楽しく、飯田線で出かける。列車の時間合わせで豊橋駅近くの老舗画廊喫茶へ、ライカマニアの素人カメラマンの作品をサラリと見て9時57分の飯田線に乗る。
 土産物店が立ち並ぶ表参道を抜け総門から初詣客でまだ賑わう境内を歩く。裏門から海軍工廠の慰霊塔。そして稲荷公園を対角に横切り茶室の木立を歩けばミュージアムは目の前。歩かなければ、おそらく一生通ることのないルート。がらではないが、小田和正の
あの日 あの時 あの場所で 君に会えなかったら 僕等は いつまでも 見知らぬ二人のままノ である
 マフラーを受け取ると、そこに美術評論のS氏がしばらく展覧会について意見交換。そこで、豊橋のギャラリーサンセリテでも現代美術展を開催しているとのこと。そういえば、私の作品も展示しているはずと思い出した。
 帰りによることにする。その前に床屋を予約。一時間後でお願いする。同じ道を帰り、飯田線、渥美線を乗り継いで柳生橋近くの行きつけの床屋へ。そこから、再び歩いてサンセリテへ入ってみると、私の作品は38年前の東京での初個展の作品。





回りに飾ってある、若い作家たちが生まれる前の仕事だ。長く歩いてきたものだ。
 見ている間に、岡崎市美術博物館で18日が最終日の「そこに在るということー歴史・美術にみる存在の印ー」展が面白いとのこと。今日はこういう日なのだと市内循環バスで豊橋駅へ、名鉄で東岡崎、再びバスで30分の岡崎市美術博物館へ、乗客は私一人。来館者が激減と聞いていたがさもあらん。
 運転手と私だけの長い二人旅。吹きさらしのバス停に一人寂しく降りる。次はきっと車でくるだろう。階段を上り、再び下ってチケットを買う。
 殆どが収蔵作品だが展示構成が秀逸なのだろう。縄文時代からマン・レイ、マルセル・デュシャンまで、面白かった。
 単独美術館ではないゆえの学芸員の悩みはあるだろうが、美術博物館であるからこその、収蔵品を組み立てての展示構成は学芸員の力量が感じられる。終わってしまったのがざんねんだが好企画である。
 それにしても、地方、それも美術博物館なのに、ダダやシュルレアリスムの世界的な作家の作品が、何故、ここにあるのだろうノ その目的や意図はノ 一つの疑問は残ったノ
 帰りもバスと電車で帰るつもりだったが、会場でAちゃんに偶然出会った。送りましょうかと言われ、帰りは楽をしてしまった。ありがとう。おかげで「笑点」にも間に合った。
 それにしても、よくぞ、回ったものだ。しかし、無理は少しもしていない。車になれてしまうとなかなか、こんな一日は体験出来ないだろう。
 「忙しい週末」のタイトルで書き出したが、偶然にまかせたまま、少しも忙しくはなく実にゆったりした週末だった。