ブログ 美術 ある画家への手紙

ある画家への手紙

お手紙読ませていただきました。
作品を見せていただくことは簡単なことですが、その前に、お読みください。

私が美術を始めたのは20代の半ばころでした。なまじか、器用なものですから、当時、美術でもデザインでも、賞のようなもの(今から思えば恥ずかしいようなものですが)をいただき、うわついていた頃でした。
 27・8歳のころ、始めて、同じシリーズで、50枚ほどのまとまった作品ができました。美術で最初の個展ができた仕事です。それなりの評価で、日本でも知られた現代作家の名を冠した賞もいただき、いい気になっていました。
 日本で最高の現代美術の画廊「南画廊」にも見ていただき、日本の抽象絵画のパイオニア、山口長男先生に会うようにすすめられました。先生は私の作品には殆どなにもおっしゃらず、イギリスの女流作家のブリジットライリー(東京国立近代美術館で個展が開催されるほどの作家です。)の作品写真を、私に見せ、こう言われました。



 「縦縞のカーテンが風に吹かれれば、このような模様を描く。また、水面に風があたれば、やはりこのような模様となる。絵描きの仕事とは、このような現象を描くのではなく、現象を引き起こす、目に見えない風を描くことだ。」
 おそらく、私の作品は「現象を描いているだけだ」と言われたのだと思います。どうすれば絵になるか、それだけを考えていた自分を恥じました。
 そして、そのとき、先生は「君はデザインをしているのだね。」と言いつつ。
「片側にデザインが作る斜面があり、反対側に美術が作る斜面がある。その二つの斜面がぶつかるところに、山の稜線ができる。美術を知ることでデザインが大衆に迎合せずに、デザインを知ることで、美術が社会から遊離しなくてすむ、君はそんな高みを目指しなさい。どちらに傾いても谷に落ちる。」
 その、二つの言葉を守って、私はその後の40年を生きてきました。
 その時、私の作品は否定されたと思っていたのですが、先生の知人でもあり、私にも先輩にあたる絵描きさんに「彼はそのままで大丈夫、見ていればいい」と、手紙で伝えていたと、後に聞きました。
 その作品は、豊橋市美術博物館に買い上げとなり。40年も前で、20代の仕事として、今みて恥ずかしいものではないのですが、その当時はショックで、しばらくは絵を描くこともできず、悩みました。



やっとの思いで開いた、東京での初個展は、数人の美術評論家にも評論していただき、雑誌にも紹介していただいたのですが、評価されればされるほど、自分の器用さが、媚をうったのだと、自分を傷つけ、絶望的な日々が続きました。



何も描けず、描きたい思いを形にするため、初心にもどり、大きな紙に、ただひたすら点と線を引くだけの絶望的な作業が、その後、数年続きます。描いた紙を積み上げて個展をするかと口にも出すような、自虐的な日々でした。そして、ついに筆を折り、アトリエもつぶし、描けないようにしたところ、しばらくすると、小枝や小石を使った、オブジェを作るようになりました。それが、昨年のギャラリーサンセリテの作品に続いています。
作為を捨て、自然の摂理に身を委ねる仕事が出来はじめたのです。
 そして、現在に続く「土」に出会うのですが、その後のことは、つい最近、美術雑誌に依頼され、書いたものがあります。それをこのあとに続けますのでお読みください。


「土の摂理に委ねる」
土との出会いは1989年、突然訪れた。たまたま目にした自宅改築で残った赤土の小山。それを、一つかみ、わずかな水を加え水彩紙の上に一本の線を引いた。かすれた軌跡と余った小さな土の固まり。それを撮影し版画〈形跡〉を制作した。



形跡 1989 79×109cm 和紙・シルクスクリーン

土は平面にも立体にもなる。含む水の量を徐々に増やしていくと粘土状となり、可塑性を持ち立体物の成形が可能となる。乾かせば可塑性を失い、日干しレンガのような、それ相応の強度を持つ魂となる。さらに熱を加え結晶水まで無くしていくと、温度により順次、土器・須恵器・陶磁器が誕生した。水の量を増やしていくとペースト状となり、絵の具として描くことも可能である。さらに、含まれる鉄分や腐食により、さまざまな色を持つ。接着材を用いて描けば、その種類により日本画・油絵・水彩画などと呼ばれることは、美術に関わる誰もが知っている。といったことを、私はその時初めて体験を通して知った。
 以来、土を使い続けて25年になる。その間に、生まれ育った愛知県東三河は土の色が豊富なことに気づいた。特に渥美半島の土は赤沢という地名もあるほどに赤い。庭に残っていた土が、一般的なグレーや茶色の土だったならば、その土を私は手にしただろうか。東三河に生まれた幸運である。

大地の豊かさ
翌1990年、富士山麓・上九一色村豊茂で開催された「WAVE OF ENERGY」に参加。20×6mの牧草地の草を刈り、深さ80cmの溝を掘った。掘り出した土をふるいにかけ、サイズごとに選別し山にした。毎日、踏みしめる大地を見てみようと思ったのだ。作品名は〈富士山麓地質調査〉。できるだけ感情を入れず無機的な名を選んだ。それ以来〈地質調査〉の言葉は今も使い続けている。
 作業の終了した翌日の未明、裾野から昇る日の出を受け、刻々変わる富士の色をバックに、出来上がった5つの富士も同じ光をあびていた。



富士山麓地質調査 1990 H90×L2000×W600×D80cm

1991年の「無冠の表現回路、エコロジーアートへ」では、豊橋市の周辺に露出した土砂を集めた。90× 90cm、厚さ4cm、24種の土を、なんら手を加えずそのまま提示。この仕事は〈COLOR SAMPLE〉と名付けた。その後も東三河の土を集め、9×9cmほどのカードに塗り、土の色見本のようなものが増えていった。



COLOR SAMPLE 1991 4×546×364cm

個展では、集まったカードを縦に11、横に17、合計187枚を一堂に並べた。別に、一つの崖で採取できた全て、あるいは黒、赤、黄などに分類した。
 この個展会場、豊橋のギャラリーサンセリテには、渥美半島の赤い土で染めた布をテント状に縫製した茶室がある。それが、今年、愛知県陶磁美術館で開催された「愛知ノート」に出品した〈「穹」愛知ノートバージョン〉である。

土と自然
1992年の〈地質調査断層〉では、稲沢市荻須記念美術館の庭を、120×120cm、深さ15cmピッチで掘り進め、その土を地層を表すかのように並べ直した。掘り出してまもなく、この地がゴミの埋め立て地であることが判明。結果として、ヘドロを美術館に搬入することとなり、物議をかもしてしまった。もとより、それを知ってのプロジェクトではなかったが、美術とは、意図とは関係なく時代を映す鏡なのだと、自らの作品に教えられた。



地質調査 断層 1992 20×960×360cm

土を扱い続けていると、常に自然と向き合い、自然の中で仕事しているかのように思われるが、そんなことはない。日本の自然環境の中では、土は草木に覆われ、露出するのは河や海の水で洗われた地層や、崖崩れや工事で表面の草が剥ぎ取られた場合に限られる。緑豊かな森林や、草木が生い茂る夏の採取には、いつも苦労する。
 すでに、土に出会って4年が過ぎていた。その頃は土をそのまま提示することはもちろん、色彩を使った仕事も、土の物質性にその多くを依拠し、結果にはその時々で納得はしながらも、最後によって立つべき場は絵画だと、常に絵画を意識していた。描きたいが、描くことで現れる個人性は避けがたいと、葛藤を続けていた。インスタレーションの一過性にも漠然とした疑問と不安を抱いていた。

土で描く
稲沢でのコンセプトは平面でも実現できるものだった。まもなく渥美半島・東浜田の2段に別れた崖からそれぞれ16層の土を採取し、その地層とほぼ同寸のキャンバスを2枚、横縞状に16分割し、採取の順にドローイングした。一般的にはペインティングの用語を使うのだが、私はドローイングにこだわっている。「描いた結果=線の集積」で面を創りだし。そのマチエールこそ、私が考える絵画である。



東浜田地質調査16-2 1994 186×160cm 土・麻布

この〈東浜田地質調査〉の連作で、私は、10年以上封印していた絵画を取り戻した。画面のスタイルは以前と変わらない。違いは、絵の具を使わず土で描くようになったことだ。
 なぜ土を使うのか。一言で言えば同じ土が無いことにつきる。もちろん、同じ場所で採取すれば再びよく似た土は手に入るが、たまたま良い結果をもたらしたとしても、それを理由に同じ土を使ったことは一度もない。
 どの土も一度切り、試しもしない。結果は常に土に委ねている。その土が描くこと(ドローイング)にどのような影響や結果をもたらすか、それは完成するまで分からない。(その上、接着に使う木工用ボンドは、土と共に練るとその白が混ざり、乾燥後と色やマチエールが全く違う。)地層のどの部分から採取しようが、色彩や素材感が豊かであろうと、変化がみられなくとも一切かまわない。採取地の決定も殆どの場合、危険がなく採取に都合の良い場所を選ぶ。それでも、自然の摂理は必ず期待に応えてくれた。

土は無限
土と販売される絵の具との違いは何か。絵の具は、誰もが簡単に入手できる反面、厳密には、その色が不可欠と言い切れる者にだけ許される道具だ。つまり、絵の具を使うためには、それで描く、明快な目的と結果が必要なのだ。
 当然、私にも結果のイメージはある。しかし、結果を決めて土を採取するのではない。採取のプロセスが結果である。採取可能な方法が、作品にそのまま反映される。時にキャンバスを一種類の土が覆い、時に2段、4段となり、条件が整えば20段やそれ以上の層が採取でき、その数でキャンバスを分割しドローイングする。
 一度切りの土を使うがゆえに、同じような仕事を続けても、常に結果は違い、飽きることがない〈愛知ノート〉は「瀬戸や常滑などの窯業地を抱える愛知がもつ豊かな風土の記憶を顕在化させる」試みである。
 窯業関連地の瀬戸・猿投、知多半島、渥美半島を貫く、直径約63kmの円を描き、その円周を12等分し、それを中心に半径2kmの内側で露出する地層を探し、4層、連続して採取した。いつものように、4段にドローイングし、それぞれの土で4点の茶碗を成形。それを1組とし、12組制作した。タイトルは〈地質調査報告書「愛知ノート」より〉。
 採取のため4日間で1000kmを走破。愛知の土は色彩豊かで変化に富み。茶碗は、溶けたり、割れたり、縮んだり、愛知の大地の素顔を見せている。



地質調査報告書「愛知ノート」より 2015 150x148cm・12枚 土・綿布、 抹茶碗・48
写真右、「穹」愛知ノートバージョン 2015 綿布・枝・鉄・土・畳
土を採取し描く行為は、常に慣れを許さず、緊張感を求められ、いまだ知らない世界への憧れという素朴で、普遍的な欲望にも敵っている。土が無限ゆえに、出会いもまた永遠に続けられる。それが冒頭で私が「幸運」という言葉を使ったゆえんである。

 今回の私の作品に対して「アイデア勝ち」とお書きになっておりますが、それには少し不満です。私が山口先生にお会いして40年、土に出会って20年。私は、何も画面に描かず、ただ画面を、色や土で塗り込めることだけで「絵画」として成立させることを考えてきました。それが、どれほど大変な試みであるかは、同じ絵画の道を歩む方なら分かると思います。
 私の作品を支えているのは、描くこと、ただ土を塗ることで生まれるマチエールです。「アイデア」ではありません。ギャラリーサンセリテとの強い繋がりもまた、そのマチエールへの評価なのです。今回の陶磁美術館の招待も同じです、プランを提示して展示が決まったのではないのです。
 私には、長い経験をお持ちのあなたの「絵画」について言える資格はないのですが、一言だけお許しください。
 「絵画」とは、山口先生が私に教えていただいた「目に見えない現象を引き起こす風を描くこと」です。抽象か具象かと迷うことも、現象を追いかけているだけです、そのようなことは「絵画」とは、一切、関係ありません。
 美術史の話など、おこがましいのですが、印象派は写実の絵画ですが、その代表者の一人クロード・モネは、目を患い、殆ど失明状態で描き、そのため晩年はなにが描いてあるのか分からないほどで、第二次世界大戦後の抽象表現主義の絵画に影響を与えました。
 しかし、抽象表現主義の代表作家である、ジャクソン・ポロックやマーク・ロスコは行き詰まり、自殺してしまいます。ところが、やはり、抽象表現主義の代表作家の一人、ウィレム・デ・クーニングは最近、ブリジストン美術館の展覧会が話題になったように、画業を全うしました。
 ポロックの「ドリッピング」(絵具をしたたらせる)絵画とは異なり、デ・クーニングの描く「女」はキャンバスに筆で描いた結果が抽象に近付いたものでした。そのため、ジャクソン・ポロック、マーク・ロスコのように行き詰まることはなかったのです。抽象を目的にすることは、一時は新鮮でも、その継続はとても難しく、とても危険なことです。私が「土」で描くようになった理由も同じで、先に記した通りです。
 あなたならば、当然ご存じでしょうが、福田平八郎に「瓦」という作品があります。あの作品は抽象でしょうか、具象でしょうか、そんなことは超越しています。とても参考になります。また、旅客機で地上を見たり、宇宙船で地球を撮影した姿も具象でありながら抽象です。



あなたはあれほど豊かな自然の中でお暮らしです。日々、目にする、草や木や、水や、鳥や、石や… それらをこれまでと違う視線で見つめるほうが、抽象などと考えるよりもはるかに素敵なことです。
 私があなたの作品で評価するのは、その描写力です。他の方にない、その力を信じてください。抽象か具象かなど、本質の問題ではありません。そんなことは超越してください。
 しかし、見たままを再現すること、つまり「現象」を描くことが「絵画」ではありません。写実を貫き、それを突き抜け、その奥にある、目に見えない現象を引き起こす風を描いてください。その結果、人に訴えかけるマチエールが生まれます。何が描かれているかではありません。無心に描いた結果生まれる、人に語りかけるマチエールが「風」をよんでくれます。絵画の魅力はマチエールです。何を描こうと、何も描かなくとも、抽象か具象か、そんなこととは関係なく、マチエールが全てです。あなたの場合には、写実に徹するその先にあると、私は思います。