ブログ 美術 2015 愛知ノート

地質調査報告書「愛知ノートより」土採取記


▼2014年8月12日
土採取予備調査

普段の土の作品の制作では採取にあたり、予備の調査などしないのだが、採取初日はあいにくの雨でもあり、初めて下見を行った。
 特に、設定した円周の12等分の採取地を地図で確認した限りでは、名古屋港に近い名古屋市柴田地区の大部分が埋め立て地である。その地区で採取できないのならば、このプロジェクトは断念するしかない。その場合、新しいプランを作成することになり、計画はゼロになる。その確認を早くしなくてはならないという理由もあった。
 高速道路を降り、現地到着。それぞれの地区は半径2kmなのだが、やはり、自然の状態が残る地層を見つけるのはなかなか困難な場所のようだ。地図から、その中でも古い土地と思える場所に向けて車を走らせ、見当をつけた辺りで、幹線道路から、脇道に入ると、道路脇で下水工事が行われている。これで一安心。なんとも、あっけなく、見つかった。その日は、あいにくの雨のため、採取の準備はしていない、そのまま、次の採取地、常滑に向かう。現場から離れて、高速道路までの間、土が採取できそうな場所はまったくみつからない。本当に運が良かったようだ。
 ところで、これだけ長く、土を採取し、ドローイングしていると、回りから、自然と常に向き合い、自然の中で仕事しているかのように思われることが多いのだが、それはあたってはいない。土というものは、日本の自然環境の中では、通常、草木に覆われ、露出することはない。自然状態で露出するのは河や海の水で洗われた崖や、崖崩れや工事で表面の草が剥ぎ取られた場合に限られる。私の仕事は豊かな自然の中から、生み出されたものではない。人の営みの最前線、まさに、自然環境が破壊された現場から創り出されている。
 次の採取地、常滑では、簡単に見つかるだろうと、たかをくくっていたのだが、それが予想外に難航した。採取地区に該当する道路をくまなく探すのだが、今回必要な地層は、天地が約1mほど露出していればよいのだが、その程度の地層でも以外と見つからない。道路の片隅に30cmほど見える土は粘土質が多く、さすが、窯業で栄えた常滑、掘ることができれば、どこからでも粘土層が現れるのだろう。しかし、殆どの道路脇を探し尽くすが、難しい条件ではないのだが、条件を満たす地層は見つからない。雨の中、車から降りては、間近でみての繰り返しで、疲れから、身も心もくじけそうになったころ、やっと見つけたのが、民家の玄関前の草に覆われ、半分物が放置された駐車場の片隅に残る、1mほどの地層。おそらく、土地の造成で削られた地層がそこだけ残ったのだろう。くたびれはて、初日の調査はこれで時間切れ、明日からの採取の大変さを予感しながら帰路につく。


▼2014年8月13日

いよいよ、土の採取本番である。昨日の雨も上がり、夜明け前に豊橋を出発。下見した下水工事現場に到着。前日にあたりをつけていた、土が採取できそうな地層が露出していた窪地には雨水が貯まり、池になっていた。岸辺で手が届く場所を探し、どうにか採取。鉄分の多い砂礫混じりのいわゆる赤土である。
 その後の茶碗の成形で、大粒の砂礫が多く含まれてはいるが、以外と可塑性は良く、簡単に薄く制作で出来た。焼成した結果は、一部、鉄が溶融し、砂礫が露出し、面白い肌に仕上がっている。
 そのまま休まず、常滑に向かう。昨日見つけておいた地層は、高さ1mで約10mほどの長さがある。その地層では左右で2種類の土が採取できる。一つは殆どが砂の地層と、もう一つは粘土質である。選ばず、最初に見た地層を選択することが約束だが、同時に見たため、今回は抹茶碗も成形するので、粘土質の土を選ぶことにした。白い土である。濡れているので、若干、グレーに見えるが、乾燥すれば、真っ白の粘土になるだろう。おそらく、これが常滑で陶土として使用されてきた粘土なのだろうか。
 しかし、いざ成形してみると、以外にも可塑性は悪く、粘りがない。てびねりでは成形がしずらい粘土だった。
  焼成の結果は、激しい収縮があり、色は茶、いわゆる常滑の土色である。
 茶碗の成形は全て、同じサイズを心がける。粘土ではなく、可塑性に大きな差のある土は、手びねりの紐作りでは同じ口径、高さを成形するのは難しいだろうと、制作は板作りとした。板作りならば、同じ高さの板を底にはり付ければ良い。反面、内側は縮み、外側は広げられるため、可塑性の少ない土では天地方向に、割れが多くなりがちだが、同じサイズに成形することは紐作りよりは容易い。紐作りで厚く作り、生乾きで削れば、同じ口径、高さを成形することは可能だが、土が生きることより、形を求めることが優先されるようで好まない。
 茶碗も皿も成形は必要な数だけ。予備は作らない。割れようが、崩れようが、それを展示する。土の採取もそれが可能な量だけに心がける。
 次の採取地は、美浜。1998年に彫刻家の国嶋征二氏と美浜で二人展を行った。そのとき、美浜の土を使用して、ドローイングをしたことがある。この地区は土が比較的露出していることは経験済みなので、安心して、向かう。案の定、しばらく、車を走らせると、都合の良い崖が見つかった。採取させていただこうとすると、農家の軽トラックが止まり、そこで作業が始まる様子。残念だが場所を変えることにする。しばらく走ると、道路脇に絶好の崖が見える。崖下は流れた土でぬかるんでいる。しかし、崖の状態は、まだ完全に風化が終わらず、粘土が堅くしまったような感じである。これをドローイングするのは、薬研で細かくしなけばならず、少し手間だが、最初に入手出来る場所の土を選ばず、いただくことにしている。粒子は細かく、砕けば、ベージュの粘土質の土になるだろう。
 成形前に薬研で土の固まりを砕く。あまり、薬研で細かくすれば、成形はしやすくなるだろうが、土の性質が変わってしまうので、練ることが出来る程度に止める。結果、砂礫が多く含まれたような状態となり、かえって可塑性が損なわれてしまったようだ。ドローイングするためにも、粒子は細かくしなければならないのだが、それをどの程度とするのかは難しい判断となる。いずれにしても、結果を考慮して判断することだけはさけたい。
 焼成の結果は、常滑ほどではないが、収縮があり、色は常滑と同様な茶色である。
 次の採取地、篠島である。師崎は盆の休みで観光や里帰りの人々で賑わい、車の止める場所がない。少し離れた臨時駐車場まで戻り、シャトルバスで再び師崎港から船に乗る。
 篠島はこのプロジェクトの基点である。愛知県の窯業地を網羅し、瀬戸・猿投はもちろん知多半島・常滑や渥美半島の古窯までを含む直径約63kmの円を設定し、その円周を12等分し、採取地とした。それぞれの採取可能地区は、円周上の点を中心として半径2kmである。各地点の距離は約16kmとなり、知多半島・渥美半島間の海上の距離はそれよりも短く、篠島を採取地としなくとも、可能なのだが、瀬戸・猿投・常滑や渥美半島の古窯跡を網羅したとき、篠島をその一つの中心にするか、師崎・渥美半島先端を採取地とするかの二つの選択肢があった。それ以外では、1カ所の採取地が海上になるからである。結果、篠島を等分の基点とすることが最も、瀬戸・猿投・常滑や渥美半島の古窯跡を網羅することができると判断した。
 問題は狭い島の中で、土が採取できるかだが、この島からは、名古屋城の築城時に御影石が搬出された歴史がある。つまり、島には、御影石の風化した、砂婆がある。砂婆がさらに風化し、堆積して、粘土となる。そして、以前、三河湾の島を巡って、土を採取し、ドローイングした作品で個展を開催したこともある。その時の篠島の土は、たしか砂婆だった。島に上陸後、以前採取した場所を思いだしながら、西南方面に向かうと、前回採取した学校裏手で今回も採取できた。師崎に戻るまでは、徒歩である。用意のリュックはずしりと重いが、再び、篠島港を目指して歩きだす。
 土は粘りはあるのだが、可塑性はなく、有機物が多く含まれた、濃い茶色である。収縮と割れが多いだろう。
 今日の楽しみは、篠島で昼食に新鮮な魚料理を食べることだったのだが、食事処がなかなか見つからない、この島は民宿で夕食を楽しめ、昼は多く海水浴客が浜辺で簡単に食事すませ、昼に楽しめる店は簡単には見つからない。それでもやっと見つけた店で、おまかせ海鮮料理を注文する。評価は、まずくはないが、期待したほどではない。名古屋からも三河からも高速道路を使用すれば簡単に出かけることができる島なのに残念だ。その後、主宰する季刊紙の編集部員に聞くと、篠島は、漁業で盛んで観光に頼らずとも経済がなりたつので、その面は発展していないのだと聞き納得。
 今日は、少し無理をしても頑張ろうと、知多半島を戻り、次の採取地、長久手に向かう。この地区はその土地の名のイメージから簡単だろうと思っていた。しかし、その地点の最も近い高速の出口は上社なのだ。市街地が広がっている。車を走らせても町並みが途切れることはない。採取地からまもなく外れようとした頃、愛知学院大学と名古屋瀬戸道路の間の、おそらく道路工事の建設でできたであろう崖が目に飛び込んできた。
 崖を登ると全体が粘土である。早速土を採取する。以前から、この辺りの高速を走る度に、上り線の左側に粘土が露出しているのを目にしていたが、やはり、この辺りから瀬戸に向かって粘土が豊富な地区なのだろう。
 今回採取した土のなかでは、もっとも粘土質の高いものだったが。細かい砂も多く含まれ、可塑性はそれほどない。粘りも少ない。色はいわゆる黄土である。
 猿投に向かう。おそらく綺麗な砂婆が採取できるだろうと車を走らせる。この採取地の円内には道が少ない。幹線道路をひた走るが、やはりそんな簡単には見つからない。4kmを走ってしまい、圏外に一度出てしまい、Uターン。最初の脇道に入るとまもなく、右側の林の中にに予想通りの砂婆の崖が見える。採取道具を抱え、歩いて林に向かうと、典型的な花崗岩の結晶が見える砂婆である。足場が悪く、急な斜面で滑り落ちそうになりながらスコップを打ち付けるようにして採取する。
 砂婆のなかに白い固まりの粘土状のものが含まれている。練れば、可塑性が出るだろう。色は黄土。
 帰路は一般道を使い、昼の分を取り戻そうと、途中、くらがり渓谷の食べ処「一升」での夕食を予約。四季ごとのメニューで、美しい小鉢で持てなして頂ける店。満足して本番第一日目は終了。


▼2014年8月14日

渥美半島を目指す。最初の目的地は、田原の大アラコ古窯跡近く。辺りは殆ど開発され、畑と民家ばかり。しばらく、走り回るが見つからない。今日も雨な上、最初から土探しは難航、先が思いやられる。やっと見つけたのが林の端に露出した赤土の層。粘土質は少なそう。鉄分が非常に多いのだろう、とても濃い赤色をしている、渥美半島は特に全体が赤い土が多いように思う。この次向かう地名も、赤沢である。
 粘りだけで、可塑性が殆ど無い。成形するだけでも大変なのだが、乾燥とともに、みるみる割れ目が広がっていく。粘りは篠島と同じで有機物のせいなのだろう。
 次は西赤沢の百々古窯に近い地区、ここも田原と同じで開発され畑と民家ばかり、しかし、この地区には海岸が含まれ、浸食された崖が太平洋岸に続く。崖は海岸では二三十メートルの高さにも及ぶ。深い草を分け、崖下まで、辿り着くと、灰色の粘土質の層である。ドローイングには問題ないが、抹茶碗に成形したとき、窯焚きの途中で塩の影響で地溶けする可能性が心配だが、構わず採取。都合のよい土を選んで採取する事はない。出会いの全てに委ねる決意と信念が結果を出すのだ。
 結果はそれほど可塑性は無かった。細かい砂が多く含まれているためなのか。成形は難しかった。
 思いがけず、渥美半島で時間をとられ、予定より早く昼食の時間がきた。次の採取地「多米」の途中、なじみの手打ち蕎麦を食べようとしたのだが、着いてみれば臨時休業。残念。しかたなく、途中で見つけたそばやで食べるが、さらに残念、力を失うが。目的地多米峠に。この地点の半径2kmの円の内側には静岡県も含まれているが、採取は愛知県に限定して露出した地層を探す。
 山の中は緑に包まれ、土の露出地を探し出すのが特に難しいのだが、多米峠は、峠のシリーズの土のドローイングで数年前に採取したことがある。そこに向かって一直線。簡単に採取が終了した。
 山道に露出した赤土だった。砂礫が多く含まれ、水簸すれば可塑性がある粘土になるだろうが、今回のプロジェクトでは、それはできない。そのため、砂礫が邪魔して、そこから割れ目が出来てしまう。それも結果である。出来る限りのことをすれば良い。
 多米峠を三ヶ日方面に下り、新城市船着山麓に向かう。
 この辺りからは、全て山中になる。山は土採取には不向きで、幹線道路も少なく。沿線は緑に覆われている。土を採取する鉱区は通常立ち入り禁止で採取は簡単にはできない。
 あたりをつけては、片っ端から脇道に入り、土の露出を探す。しかし、見つからない。その内の一つの脇道を入ると、辺りがなにやら痛々しい雰囲気、辿り着いたのは、どうやら産業廃棄物の最終処分場のようだ。環境破壊の場でしか、土は採取できないとは記したが、これは頂けない。寂しく、山道を下り、幹線道路出る直前の道路脇に、先ほどは見逃した小さな崖発見。
 少し鉄分を含み、砂利混じりの普通の山土のようだが、えり好みはしない。それに、早くここから離れたいので、早速、採取、雨も小降りだが降り続いている。有り難いことに、そばを綺麗な雨水が流れている。使った道具を洗い流して、次の採取地、設楽・作手に向かう。
 新城市船着山麓の土は比較的成形がし易かった。しかし、鋭利な砂礫が含まれ、粘土を手で延ばし板をを作ると、指にささる。
 設楽・作手竜頭山麓ではさらに、見つからない。地図に載る道のほぼ全てを回るがそれでも見つからない。雨は途切れもなく、降り続け、昨日までの疲れも出てきた。結局、二日目は、ここで時間切れ。


▼2014年8月15日

再び、設楽・作手竜頭山麓へ、昨日、時間切れで、探し残した場所が1カ所ある。道路から外れ、一度、採取地の円の外に出て、遠回りしなくてはたどり着けないため、昨日は断念した地区から、始めることにした。くねくねと曲がる細い山道をひたすら登る、このまま進んでも行き止まりだろうと、引き返そうと思っていると、木立の向こうに土の露出がある。沢ではないが、雨で土が流れ、小さな谷が出来ているようだ。車から降り、確認すると砂婆だが、粘土分は少なく、可塑性は少なそうだが、二日がかりでやっと見つけた土である。それに、考えてみれば、好みの土などそもそもない。自然の状態の土ならば、それで充分なのだ。
 しかし、水を加えても可塑性は全く無い。このままでは成形は不可能である。今回は同じ形に成形、焼成しその結果を提示したかった。苦肉の策で、澱粉糊を加えて練り、少しの粘りを与えて、成形することにした。焼成すれば、澱粉糊は焼却してしまう。しかし、砂婆に含まれた成分で焼成後も形を保つことが可能だろうか。焼成してみなければ結果は出ない。直径20cm程度のせんべいに載せて焼成することにする。崩れたときはせんべいもろとも展示する。粉状態になったとき、どのような方法で美術館に運ぶのか、それは出たとき勝負になる。それも一つの楽しみではある。
 山を下り、平らな山道を走り続け、最終地足助に向かう。
 のどかで美しい山村の間の小道を上り続ける。このように、人々が手厚く整備している村域で簡単に、土の露出地がないことは経験上知っている。村を抜け、人の手の届かないところまで行かなくては見つからないと、土探しはあきらめ、山里の風情を楽しみながら、走り続ける。今回の土探しも、この足助で最後、まだ、時間もたっぷりある。今日は余裕である。
 村を抜け、しばらく急な坂道を登りきると、道路脇に広い駐車場があり、その前におそらく砂婆の採取場なのだろうとおもわれる崖がある。こんな山の奥には人もこないのだろう。通常は立ち入ることは出来ないのだが、持っていけとばかりである。もちろん、早速、ありがたく採取させいただいた。ここも砂婆だが、初日に採取した猿投の砂婆と比べると粘土分は殆ど含まれてはいない。
 この土も設楽・作手同様、可塑性は殆ど無く澱粉糊を使用し、せんべい上で焼成することになるだろう。
 調査と採取を兼ねた、合計走行距離が1000kmにも及んだハードなハードな4日間がやっと終了した。


▼2014-09-02 14:15 
木漏れ日茶会

20年ほど前に制作した土染めの布による茶室を、愛知県立陶磁美術館で来年1月に開催される企画展「愛知ノート土・風土・記憶」に出品することになり。埃まみれになっていたのを、21年ぶりに解体し、洗浄と補修作業を行った。
 陶磁美術館でのインスタレーション〈「穹」愛知ノートバージョン〉は、周囲に枝で架構を造り、内部に土染めの茶室を吊り下げる。そのため、虫干しと点検を兼ね、湯谷温泉のアトリエの松林に、陶磁美術館でのインスタレーションと同じく組み立ててみた。これまで、室内で設置されていた時とは、また別な表情を見せた。





ここで、一度、お茶をいただきたいなと思いいたり、下記のような次第で「木漏れ日茶会」を催すことになった。





▼2014-09-08 15:22
木漏れ日茶会準備着々

木漏れ日茶会で点心に、薪で炊いた微かに焦げの香るご飯を出すにつき、50年ほど前まで現役だった釜はあるのだが、木蓋がないとのこと。そこで、益子の友人キンタに厚板を頼んだら、樅の木の厚板が早速届いた。当然だが、そり止め兼取っては、ついていない。しかたなく先週末に頑張ってみた。



釜の直径が37cmと22cmの2種。木蓋の一つは直径が42cmと、かなりの大きさ。溝を穿って組み合わすという技は持ち合わせていない。そこでビスと埋木で制作。前日には、竈も耐火煉瓦で作らなくてはならない。と、こんな具合に茶会の準備は着々とすすんでいる。ぜひ、お越しください。
 ここからは、まったくのつまらない話。(ここまでもたいした話ではなかったが さらに )
野菜の苗を沢山いただいて、湯谷の家に植えたことはブログでも書いたが。西瓜がやや大きくなり、縞模様も濃くなってきた。(実は、これまでも、葱、オクラ、ミニトマト、茄子などは本当に僅かだが収穫できていた。)しかし、初めてで、収穫時期が分からない。来週では遅いだろうと試食。直径が18cmほどの小さな西瓜は、少し早かったが、中心の甘みは充分だった。



手入れもしなければ、肥料も与えず、ただ、大きくなれ、そしたら、食べてやると、たまに見てやるだけでは、反抗したくなるだろうし、西瓜にとって、鳳来町は気温が足りないし、昨今の天候不順では甘みものらないだろうが、それでも、自堕落の俄百姓は楽しいものだ。そうそう、薪で炊いたご飯は、ゲーテ高橋さんの野草料理で楽しめます。


▼2014-09-22 10:54
充実した一日 木漏れ日茶会

週間天気予報では寸前まで雨で、当日までやきもきさせられた木漏れ日茶会が、無事、開催できた。曇り日で、「木漏れ日」は残念ながらささなかったが、多くのお客様で賑わい、久しぶりの出会いもあり、終日、美術、茶、野草料理などの話でもりあがった。曇りだったが、野外で過ごすにはかえって良かったかもしれない。





赤松の林に組み立てられた茶室。布一枚の境界で別世界の空間が待っている。



茶室は豊橋市の周辺で集めた土で染めた布をパッチワークしている。掛け軸は、富士山の火山灰をドローイング。彫刻は、白樫とアルミニウム。床は、林の地面をそのまま残している。畳の替わりに孤を敷き、切り株、生えていた姫榊はそのまま残し、孤から顔をだしている。晴れていれば、壁の布に木漏れ日が映るのだが、優しい、曇りの光もそれに負けず、美しい。我ながら、今日のセッティングは、自慢して回りたいほどに美しかった。





決まりも作法も知らない、門外漢が主催する茶会だが、これが、本当の茶会だと、自画自賛の時間がゆったりと過ぎていく。
 点心は、辺りで採取できる山野草と即席の竈で炊いた新米のおにぎり、お茶菓子は地元の薩摩芋を使った鬼饅頭。
 器の準備が大変だった。お客様は40名でおことわりし、スタッフ10名。抹茶茶碗が15。点心の30cmの皿、豚汁の器、湯飲みは全て人数分用意した。、洗い終わって、並んだ時は壮観だった。





準備や当日の接待など、大変ではあったが充実した一日だった。
 次は、来年の1月、愛知県の陶磁美術館に、この茶室を、再び、セッティングする。自然のなかとは、また違った空間を創り出してくれるだろう。


▼2014-11-11 11:08
愛知ノートと垂直考 4

2014年の個展が始まった。二日目に行った対談にも多くの方々に参加していただいた。





中央が愛知県陶磁美術館の大長智広氏分かり易い話で、私もとても楽に話せた。
内容は今回の個展の作品のこと、来年の1月から開催の大長氏企画の「愛知ノート」のことなど
私の「愛知ノート」への出品作の制作も始まり、その話にも及んだが、そのことは次回にして、今回の対談での話題の一つを思いだしている。それは「ジャンル」について

来年の1月10日(土) - 3月15日(日)まで、愛知県陶磁美術館で開催される企画展「愛知ノート」は、副題が―土・陶・風土・記憶―となっている。

美術館のホームページには
「やきものは社会に深く刻み込まれた存在ですが、今日、やきものを生み出してきた風土やその記憶が見えにくくなっています。本展では、様々な芸術作品と関連資料を通じて、大窯業地を抱える愛知という場を描きだします。」とある
この展覧会には陶芸作品だけでなく、例えば、写真家東松照明が1954年に撮影した《焼き物の町・瀬戸2》や、私のような美術の作家まで、様々な土(陶芸)に関わる芸術分野の作品と関連資料を通じて、土(陶芸)の可能性を考えようという試みである。

そこには、現在、高度に発展した創作分野の専門性がこれまで多くの成果を上げてきた反面、本来の意味での芸術の創造ということでは、その垣根に囚われてきたという弊害も無視できないという背景があるのだろう。

これまで、私は、美術とデザインを両立させようとしてきた。それは、画家山口長男氏から約40年ほど前に私に投げかけられた「片方に美術が作る斜面があり、もう片方にデザインが作る斜面がある。その斜面が出会う高みに、山の稜線が生まれる。君はその美術とデザインが造る山の稜線上を歩け。美術に係わることでデザインが大衆に迎合せず、デインに係わることで美術が社会との接点を見失わずにすむ。どちらへ足をとられても谷に落ちる。」の言葉がある。
 その後、書家井上有一氏との出会いからアートとしての「書」も知った。氏から私に届いた筆書の手紙は額装し、今も私の身近にある。それら、素晴らしい先生から多くのことを学んだ。
 例えば、何故、書家の多くがつまらないのか。何故、陶芸家の作品が弱いのか。それが、特に、現代陶芸、現代書あるいは、陶のオブジェや墨象などと呼ばれ、前衛などという冠がついたものがいかに取るに足らない陳腐な物であるか。
 それは一つに必然性の欠如に理由がある。書家は習い覚えた書の技術から、新しい作品を作ろうとし、陶芸家もやはり身についた轆轤や焼きの技術の範囲で、新しいものを考えようとする。しかし、そこには根本的な間違いがある。本来、書や陶芸の技術には関係なくアーティストには表現したいものがなくてはならない。それが、たまたま書や陶芸の分野に相当する時もあるというだけなのだ。そもそも、技術など必要あるのか。表現したいものが明快であれば、技術などは、それから身につけても遅くない。
 山の頂に登ろうとしたとき、その頂上が目に見えて入れば、歩き続ければ、時間がどれほどかかろうが、頂上にはいつかたどり着ける。頂上がどこにあるかを知らずに、どれほど頑張って歩き続けても頂上にはたどり着かないだろう。それでも、ときに、人を見下ろす山の頂きに出てしまうこともある。それが権威主義が登ろうとするアカデミズムの山なのだ。
 本来は既成の「ジャンル」など必要ない。その存在の理由や根拠は、芸術とは関係なく、その殆どが効率の問題であり経済の問題である。


▼2014-11-11 13:16
愛知ノート制作開始

来年一月から愛知県陶磁美術館で開催される「愛知ノート」の」制作が始まった。この企画展は、様々なアートの分野の作品と資料で、陶芸の愛知県を俯瞰し、可能性を探ろうという試みである。

私がこのテーマから発想したのは、愛知県の窯業地を網羅する円を設定し、



その円周を等分した地点で土を採取し、その土でドローイングし、克つその土で抹茶碗を作り、土染めした布で制作した茶室をインスタレーションするというものである。
 12等分した地点には、瀬戸・猿投はもちろん、知多半島・常滑や渥美半島の古窯までが含まれる。各地区からそれぞれ1カ所、土の露出地を探し出し天地四段階で土を採取した。その土で、約150cm正方の綿布にドローイングする。



採取した土を木工用ボンドで練りドローイングの準備。採取した土はタッパに地名と順番を記入し整理している



コテを使い、ドローイング。写真左端に並ぶタッパが採取した土。



ドローイングが終了、乾燥。



同時に和紙に小品もドローイングしている。一点選び軸装して茶室に掛ける。

約150cm正方のドローイングが12点。抹茶碗が48。土染めの茶室。掛け軸のドローイング。それに、床に置くオブジェも制作する予定。全てを個展を終える11月末までに準備しなくてはならない。相手してもらえる内が花だと、毎朝、早起きして土いじりの毎日である。


▼2014-12-08 12:11ハ
愛知ノートの制作が終わった。

猿投、長久手、知多半島、篠島、渥美半島、新城、設楽、足助を貫通する円周上の地点から採取した、土によるドローイング12点と抹茶碗48と皿12枚。

あとは焼成と搬入を残すのみ。

上下4段で採取した土を150 X 139cmの綿キャンバスにドローイングした、全てで12点。





アトリエでは、私も数点ごとにしか、みることができないので、一列に並ぶのが楽しみだ。写真は一番最初に採取した名古屋港近くの柴田地区のもの。砂礫が多く、最大で3cmほども飛び出している。

茶碗の成形は大変だった。48種類もの土をその都度練っては成形しなければならない。



その多くは粘土質では無く、殆ど可塑性が無い。乾燥の途中で、みるみる割れていくものもある。しかし、乾燥状態でも分かるように様々な色や質感がある。
 焼成の過程で割れるだけではすまず、崩れるものや、溶けてしまうものも恐らく出るだろう。それが、楽しみではある。どのような結果も、それがその土と私の自然な関係の姿となる。
 唯一の心配は、乾いた砂のような状態で窯出しとなった時、どうやってそれを美術館に運び展示するのか。実は、それすらも楽しみの一つなのである。
 皿は各地区で最初に採取した土で、各地区一枚、全部で12枚成形した。積み上げて焼成する。古窯から出土する。山茶碗を想像しているのだが、ガス窯での焼成だし、釉薬も使用しないので固まっては、出てこない。果たして、どのように焼き上がるのか、これも楽しみである。この皿のオブジェは土染めの茶室の床に置く。
 和紙にドローイングした設楽の土は手作りの掛け軸にする。今は裏打ちの乾燥中。



どのような掛け軸になるかは、見てのお楽しみである。


▼2014-12-19 17:53ハ
愛知ノート 搬入

昨日、今日で、愛知ノートの大きな作品の搬入が終わった。
昨日は成形の終わった抹茶碗と皿を焼成するために陶磁美術館に持ち込む。



抹茶碗は全部で48。全てサイズを同じにするために、板作りで成形。粘土分の少ない土が多く、最もひどいのは、全くの砂婆土で可塑性はゼロ。澱粉糊で練って成形したがさてどうなるやら、楽しみである。希望を言えば、崩れたり、溶けたり、割れたり、派手に土に暴れてほしいものですが、それも全て土まかせです。もう手の届かないところまで行ってしまいました。



皿は採取地それぞれにつき一枚。12枚を積み上げた。山茶碗が発掘で固まって出土するイメージだが、粘土分が少なく、釉薬も使わず、ガス窯の焼成ではくっついて出てくることはないが、垂れる土や崩れて砂状になるものもあるはず。さてさて、楽しみである。
 同じサイズで板皿を作ったが乾燥ですでに大きな差が出来ている。まだまだ変化はこれから、バンバン温度を上げて1250度。還元焼成でお願いした。



窯出しは月曜日の昼。茶室の床の間のオブジェになる。
 今日は平面作品の搬入。ヤマト運輸の美術担当の方と美術館の学芸員合わせて5名。経費も大変だろうなと、貧乏人はすぐに考えてしまう。自分で搬入するのならば、もっと簡単にしてしまうのだが、さすが専門家、立派な箱まですでに用意されており感激なのだが



展覧会の終わった後はこの箱で返ってくるのだと、想像したとたん、来年3月は作品倉庫を大改造しなくてはならないと、頭が痛くなる。



さすがにプロです。アッという間に荷造り完了。残りはギャラリーサンセリテと、湯谷温泉のアトリエで、茶室の材料を積み込んで簡単に終わるはずが、トラックが大きすぎてアトリエまで進入できず、ゆーゆーアリーナの駐車場まで、茶室の架構用の4mの枝の束を5束、肩に担いで運ぶことに。
 今回の展示は最後まで作業が多い。来年1月5日から始まる、インスタレーションはスムーズに片付けたいものです。


▼2014-12-23 15:49
愛知ノート 抹茶碗焼成完了

愛知ノートのために焼成を依頼していた抹茶碗が昨日窯から出た。すべて釉薬は使用せず1250度の還元焼成を依頼した。
 全て同じサイズ高さも口径も板造りで揃えたが、溶けたものあり、崩れたものあり、極端に縮んだものあり、割れたものあり、石が露出したものあり。土それぞれの素性で様々に結果が出て面白い。





設楽と足助の砂婆土は可塑性が全くなく、澱粉糊を使って粘りをつけ成形したため焼成で崩れると思っていたが溶けて出た。
 渥美半島の赤沢は、海岸で塩分が含まれたためか、完全に溶けてしまった。篠島も同様なのだが、たった10cm採取場が違うだけで溶けたり原型を保ったりもする。
 土の色の多くは鉄分である。鉄分はどこにでも進入し易く、白い土は求めがたいのだが、さすが瀬戸に近い猿投は当たり前のように白く縮みも少なく耐火度も高い。瀬戸が一大窯業地帯である所以である。
 陶芸的に考えれば、溶けてしまった土は釉薬として利用でき、もう少し低い温度で焼成すれば、胎土としても使える。
 思う通りにならない土を悪い土、思い通りになる土を良い土と判断しがちだが、判断は作為である。良い土、悪い土などはない使う人間しだいなのだ。それは効率の問題であり経済の問題である。芸術の問題ではない。
いつまで見ていても見飽きない。展示が楽しみである。


▼2015-01-08 08:48
愛知ノート 展示終了

5日から始まった愛知県陶磁美術館の愛知ノートの展示が終了した。



まだ会場の清掃が終わっていないが私の展示状態。



愛知ノートのための新作のドローイングが12枚。ガラス越しではあるが、一堂に並んだ姿は、我が作品ながら壮観ではある。さながら大きな額縁に収まったかのようで、照明も美しく調整していただけた。



ドローイングの下には、それぞれの土で制作した抹茶碗が48点。全て同じサイズで制作したのだが、溶けたり、割れたり、縮んだり、その土が持つ資質が現れている。土の色は含まれる鉄の酸化の状態と腐食によって作られることは知っていたが、赤い土は鉄が錆びた状態であり、茶碗を作り還元焼成すると、土から酸素を奪うことになる。つまり、土は鉄の色に戻るということなのだが、それが上下に並ぶことで、そのことが本当に理解できた。
 下は陶磁美術館に近い猿投のドローイングと抹茶碗。さすがに陶芸愛知の中心地、色も美しいが、耐火度も縮みも陶土として充分なもの。この土に、白く溶けてしまった足助の真砂土を釉薬にすれば、原始的な志野焼が作れる。



ドローイングの前には土染めの茶室[穹]愛知ノートバージョン



もう20年以上前の作品な上、本来は内部に入るだけで、茶室の外からは見ることはできない設定で制作したものだが、今回、美術館の依頼で外部からも見ることができ、広い空間に設置できるように、枝で架構を製作して吊り上げてみた。





床の間の軸は、今回採取した設楽の土を、初めて和紙にドローイングしたもの、床に敷いた土もその設楽の土。
床のオブジェは今回採取した、12地区で一枚づつ作成した皿を積み上げて焼成した。



2015年の最初の仕事は、とても作業量が多く、少し疲れが残っていますが、恥ずかしくない仕事が出来た。
 陶芸とは、また、現代陶芸とは、そして、現代美術とは、それらの立ち位置と、それらが抱える問題とは。私も、まだ全体の展示を見てはおらず、展示の合間に一部をみただけですが、様々なことに思いをめぐらせている。


▼2015-01-11 07:20
愛知ノートが始まった

昨日陶磁美術館の愛知ノートの開会式があった。
開会式には出席しなかったが会場にはでかけた。



味岡伸太郎(1949)は、グラフィックデザイン、タイポグラフィ、絵画、土による造形、彫刻など様々な領域において仕事を展開する作家である。味岡が土の仕事を始めたのは1990年代の初頭である。味岡はこの頃から「地質調査」という意識をもとに作品を構成してきた。これは自然が作り出すシステムに自身が寄り添うことで、しかも自身の関わりによってそのシステムが持つ潜在力を「美」という観点で引き出すことができるのではないかということである。こうした仕事は豊橋の山間部から海岸部までの土をあつめた1991年の《COLOR SAMPLE》や《富士山麓地質調査》から始まり、今日まで続いている。今回、愛知ノート展出品にあたり、味岡は瀬戸や常滑、長久手、渥美など12カ所を円で結んだ地域の土を4層にわたって採取し、その土で「絵画」と「茶碗」を制作した。「絵画」では土の層をそのままキャンバスに描き出し、「茶碗」では、板作りによって同じ大きさのものが各4個ずつ計48個成形された。土の採取場所は法則性に則ったものであるにもかかわらず、「絵画」や焼成後の多様な変化を示す「茶碗」を通じてこの地域の地質の違いが顕在化していることに驚かされる。また、茶碗が呈示されることで、私たちはこうした風土の上で人々がどのように生活を構造化させてきたのかという歴史に思いを巡らすこともできるのである。さらに味岡はインスタレーションとして土染めの布を用いた茶室も展示する。この茶室はもともと豊橋のギャラリーサンセリテが回廊する際にその空間にあわせて作成されたものである。陶磁美術館という場では、木の枝を用いて視覚的に楽しめるラインをもつ柱を組み上げ、そこに柔らかな土の色で染め上げられた布で茶室空間が作られる。茶室は味岡の土への多様なアプローチを示すとともに、中に入ることで土そのものに抱かれる感覚を味わうことができる作品である。
(愛知を「記述」すること、そして「再認識」につなげること ー「愛知ノートー土・陶・風土・記憶ー」展によせてー 愛知県陶磁美術館学芸員・大長智広)

 わずかな時間しか開場にはいなかったので、まだ全体の展示はしっかり見ていない。展示は美術だけでなく、愛知の地質の資料までもが並んでいる。アートの作品よりも、それらのほうが私には興味があったが、もう一度時間を作りゆっくり見る予定。
 その中で、とても目に止まった仕事があった。人間国宝、三代山田常山さんの急須がズラリと並んでいた。あのような伝統的な仕事でも、あれだけそれ一筋の仕事となると、生き方の強さが伝わってくる。最近の日本の現代美術の、安易なコンセプトや体のいい感性などという言葉が、あの急須の前に立つと虚ろである。
 2012年に栃木県益子町で開催された土祭に益子の土をドローイングした作品を出品した。



そのときにも、益子の土を用いた急須を制作する若杉集さんが素晴らしかった。どちらも伝統的な急須なのだが、その一筋の道に「美」の一つのあり方を教えられた。


▼2015-01-27 09:20
茶会とワークショップ

1月25日(日)。陶磁美術館での、糸魚川淳二氏の講演会「東海湖」のルーツをさぐる−陶土(つち)はいつどこで出来たのか−を聞く。
 その後、三代山田常山の急須を再度見る。やはりいい。過去、陶磁美術館で開催された「煎茶陶芸の美と伝統」の図録も入手できたが図版では伝わらない。
 あのサイズと質感が重要なのだ。やはり、実物を見なくては大事なことは伝わらない。



最近のバーチャルリアリティの発達で、仮想現実の中で全てが理解できるかのような錯覚が横行している。しかし、図版では伝わらないことだけが、実は、伝えたいことなのだ。
 それは現代美術でも同じだ。言葉で表現できることを、ただ説明のため存在する作品が横行しているが、コンセプトは制作することのみでしか伝えることができない。それが、表現することの意味なのだ。

茶会 2月28日(土)午後1時30分〜
出品している土染めの茶室で茶会を開きます。使用する茶碗も私の作ったものを使い、私も一緒にいただく。

ワークショップ「土で描く」
3月1日(日)午後1時30分〜4時30分 愛知県陶磁美術館 陶芸館
美術館近くの林で土を採取し、絵の具を作り、私と同じ方法で、全員で大きな作品を共同制作する。


▼2015-03-02 11:31
陶磁美術館 茶会とワークショップ

陶磁美術館での「愛知ノート」も残すところ2週間となった。2月28日には茶会、3月1日にはワークショップ。
 茶会は会期が始まってからの告知となり、参加者が集まるか心配したが、蓋をあけてみれば、5回の入れ替えが飛び入りも含めて8回となり、閉館間近まで有意義な会話で、1日を終えることができた。



花入の椿は染めた土を採取した。渥美の近辺に自生する藪椿を、茶会の朝、摘んで出かけた。
明けて1日は、土で描くワークショップ。朝からあいにくの雨。昨日の茶会は雨でもよかったのに、私はやはり雨男かと思ったが、不思議不思議。土を採取している間だけ雨がやんでくれた。美術館の進入路の斜面に、参加者20名が一列にならび土を採取。



会場に戻り、作品と絵の具について少し解説。



採ってきた土に木工用ボンドを混ぜ絵の具を作る。



完成した絵の具一列に並べると色の違いが分かる。



採取した地層の順に一斉にペインティングの開始。





完成



乾性油で練れば油絵となり、膠で練れば日本画や書となること。絵の具というものは、画材屋さんで買うだけでなく、気がつけば周辺にあるあらゆるものが、色彩を持ち、美術の素材になること。そして、自然というものは本当に美しいものだということがすこしでも体験していただけたのなら、少しは意義のあるワークショップだったと思えます
 それとは別の話。遅れていた展覧会の図録が完成。それを見て、物故作家や、古い記録写真を撮影した写真家を除けば、私がもっとも年寄りだと知り愕然とした
 冗談では「老働者」と、自らを紹介しているが、現実にこのように他から知らされ、いささか寂しいような、若い人たちの間に入れていただき、感謝すればいいのか。年寄りたちよもっと頑張ろうよと、いえばよいのかノ ほんの少しだけ考えさせられた。