▼2014-10-15 13:482014 「垂直考」 2014年11月8日(土)-11月30日(日) 細長い物体を垂直に立てる試み。それらの多くは自立しない。立つことはできても、その状態を長く保つことはできない。自立できないものをいかにして、垂直に立て、安定させるか。垂直に立てようとはしているが、そのことに格別な意味はない。そもそも垂直に立てることは目的ではない。それが水平であっても、また、それ以外でも、なんら支障はない。これまで同様に制作の都度、選択すればよいことである。しかし、その選択がなければ、何事も始まらない。それは、目的ではないが、制作の動機ではある。 細長い物体が垂直に立つためには、必ず、それを支える何者かの助けが必要となる。細長い物体と何者かの間には、適切な関係が必要となる。それは過不足ない関係と言い換えることもできる。過不足ない関係を成立させる条件は、まず、それを支えるものは、必要最小限でなくてはならない。そして、細長い物体と、それを支えるものが本来持つ資質、つまり、重量、硬軟、形状などの物理的特性で垂直を保たなければならない。我々が手にする全てのものは、我々を試している。謙虚に誠実に、それらが導く方向に身を委ねさえすれば、常に、確かな結果をもたらしてくれる。 ▼2014-10-10 11:54 垂直考 1 11月の個展にあわせて制作していた、版画集「垂直考」が完成した。 今回の個展の作品は、ある細長い物体を垂直に立てる試み。これまでに、26点制作した。 その全てを撮影し、修正し、版画集に仕立て、カルトン状の表紙でまとめてみた。 表紙を開くと、和紙のたとうに包み、シート状の作品が26枚。 それとは別に「垂直考」と題した、拙文を入れた。 「垂直考」 細長い物体を垂直に立てる。それらの多くは自立しない。立つことはできても、その状態を長く保つことはできない。自立できないものをいかにして、垂直に立て、安定させるか。 垂直に立てようとはしているが、そのことに格別な意味はない。そもそも垂直に立てることは目的ではない。それが水平であっても、また、それ以外でも、なんら支障はない。これまで同様に制作の都度、選択すればよいことである。しかし、その選択がなければ、何事も始まらない。それは、目的ではないが、制作の動機ではある。 垂直に立てるだけならば、方法は幾らでもある。細長い物体を支えるに充分な基礎を、溶接やボルト、あるいは接着剤などで接合すれば、かなり無理な形でも可能である。 また、基礎を目に見えなく、例えば、地中に埋めたり、容器で覆ってしまえば細長い物体は、それ自身で垂直に、あるいは自然に立っているかに見える。 その方法は、モニュメントや建築や活け花などの分野で多く採用されている。活け花で使用される剣山は、まさに、溶接やボルトの変わりとなり、目にみえないことを前提に、擬似の大地となる。 しかし、そのようにして接合された物体は、もはや自立しえない細長い物体ではない。一体として自立できる物体といえる。それは、自立しえない細長い物体を装って立つことであり、大いなる欺瞞と言ってもよいだろう。 細長い物体が垂直に立つためには、必ず、それを支える何者かの助けが必要となる。細長い物体と何者かが、求める形で垂直に立つためには、両者の間に、適切な関係が必要となる。それは過不足ない関係と言い換えることもできる。 過不足ない関係を成立させる条件は、まず、それを支えるものは、過不足なく、必要最小限でなくてはならない。そして、細長い物体と、それを支えるものが本来持つ資質、つまり、重量、硬軟、形状などの物理的特性で垂直を保たなければならない。 もちろん、接着剤や溶接やボルトなどの使用は、厳しく慎しみ、その支え合う構造は目に見える形でなくてはならない。 大地に杖を適切な力で押せば、その杖は垂直に立つ。必要以上に大きな力で押しつければ、それは無駄であるばかりか、時に杖を曲げ、過ぎれば折れてしまう。 また、杖は、土の大地であるからこそ、突き立てることができる。それが、コンクリートやアスファルトであれば、我々の目は、そこに、何らかの不必要な力や、隠された作為を見いだすだろう。 我々が手にする全てのものは、我々を試している。謙虚に誠実に、それらが導く方向に身を委ねさえすれば、常に、確かな結果をもたらしてくれる。 過不足なく支え合い、細長い物体が継続的に垂直に立つ、その時、目的ではない垂直に立てることが、制作の動機となり、目的となり、結果として、表現となる。 彫刻家であり、詩人であった飯田善國氏による「味岡伸太郎の世界 メ美の倫理モ」という一文がある。 味岡伸太郎の作品は80年代の「組成」シリーズの時代からシステムの発見に向ってひたすら作動してきたと言われている。その通りであろう。 「組成」シリーズの作品群は、作者の眼が、「表現」に向ってではなく、「自然の法則性」を見出し、それを何気なく束ねて行くその束ね方の非主観性・無作為性へ向けられているのを知らせてくれる。そのことが、ある爽かさを生み出してもいる。 20世紀の芸術が根本のところで、芸術家の個性を際立たせることに力点を置いてきたとすれば、現在は、その反動として、あるいは反省として、芸術家の個性の否定、あるいは個性を超えたものへの視点、といった方向へ向うのは自然の成り行きであろう。 味岡伸太郎の制作の基本は、作為性の否定という立場を貫くことに置かれてきた。 彼の目指す無作為性は、無作為性そのものが目的なのではなく、無作為性という態度を貫徹することで、自然の裡に匿されている法則性を見つけ出し、それをシステムとして体系づけるための方法としての無作為性なのである。 芸術家は自然に対し従順でなければならないが、だからと言って、従順で謙虚でありさえすれば自然はその本質を明らかにしてくれるかといえば、必ずしもそうではない。芸術家は、従順で謙虚でありつつ、更に、鋭い眼と巧緻な論理を備えていなければならない。 味岡伸太郎は、珍しくこの二つの特質を兼ね備えている。その結果、彼が促えてくる真実は、深く大きな体系をもつに到る。 どんな体系なのか。 原理的でありつつ宇宙的であること。時間的でありつつ、空間的であること。細部的でありつつ、全体的であること。自然主義的でありつつ、きわめて思想的であること。 表層的でありつつ、重層的であること。要素的でありつつ、人間的であること。無作為的でありつつ、構造的であること…など。 彼の自然に対する自然なこだわりは、近代主義に対するひとつの批判と成り得ているといえる。そこに私は厳しく美しい倫理の香りを臭ぐのである。
この文が書かれたのは、1995年、すでに20年が過ぎた。その後も変わらず、同じことを続けている。(2014.10.10 味岡伸太郎) ▼2014-10-22 17:57 垂直考 2 古い鉄の立方体と 錆びたアングルと、立方体と見た目が同じサイズの石 たまたま目にした立方体の全ての出隅にアールがある。鉄のアングルの入隅もぴん角ではなくアールを持つ。添わせてみるとピタリとあう。倒れる可能性で残るのはアングルの面に添った方向のみ。立方体の上面の対角線上に、立方体と見た目が同じサイズの石を置くと安定して、垂直に立てることができる。 立方体の出隅がアールにアングルの入隅を添わせること。立方体の上面の対角線上に石を置きアングルを支えること。立方体と見た目が同じサイズの石を選ぶこと。 その全てが意図した行為である。そう考えれば、全てが作為に基づくことになる。しかし、そうではない。と私は考える。 始まりは、たまたま鉄工場で鉄の立方体を目にしたこと。その出隅にアールがついていたこと。アングルの入隅のアールを思いつき、丁度よいアングルがそばにあったこと。立方体と見た目が同じサイズの石だけは意図して選んだ。しかし、その行為も、たまたま目にした立方体に釣り合うサイズを選んだ結果なのだ。全てが、連結した必然なのだ。必然と無作為が相反することはない。と、あえて、力説するほどのこともないのだが、私としては納得できる行為と結果なのである。今回の個展はこんなことを考え、細長い物体を垂直に立てる試み。
▼2014-11-07 14:26 垂直考 3 ▼2014-11-11 11:08 愛知ノートと垂直考 4 2014年の個展が始まった。二日目に行った対談にも多くの方々に参加していただいた。 中央が愛知県陶磁美術館の大長智広氏分かり易い話で、私もとても楽に話せた。 内容は今回の個展の作品のこと、来年の1月から開催の大長氏企画の「愛知ノート」のことなど 私の「愛知ノート」への出品作の制作も始まり、その話にも及んだが、そのことは次回にして、今回の対談での話題の一つを思いだしている。それは「ジャンル」について 来年の1月10日(土) - 3月15日(日)まで、愛知県陶磁美術館で開催される企画展「愛知ノート」は 副題が土・陶・風土・記憶となっている 美術館のホームページには 「やきものは社会に深く刻み込まれた存在ですが、今日、やきものを生み出してきた風土やその記憶が見えにくくなっています。本展では、様々な芸術作品と関連資料を通じて、大窯業地を抱える愛知という場を描きだします。」とある この展覧会には陶芸作品だけでなく、例えば、写真家東松照明が1954年に撮影した《焼き物の町・瀬戸2》や、私のような美術の作家まで、様々な土(陶芸)に関わる芸術分野の作品と関連資料を通じて、土(陶芸)の可能性を考えようという試みである。 そこには、現在、高度に発展した創作分野の専門性がこれまで多くの成果を上げてきた反面、本来の意味での芸術の創造ということでは、その垣根に囚われてきたという弊害も無視できないという背景があるのだろう。 これまで、私は、美術とデザインを両立させようとしてきた。それは、画家山口長男氏から約40年ほど前に私に投げかけられた「片方に美術が作る斜面があり、もう片方にデザインが作る斜面がある。その斜面が出会う高みに、山の稜線が生まれる。君はその美術とデザインが造る山の稜線上を歩け。美術に係わることでデザインが大衆に迎合せず、デインに係わることで美術が社会との接点を見失わずにすむ。どちらへ足をとられても谷に落ちる。」の言葉がある。 その後、書家井上有一氏との出会いからアートとしての「書」も知った。氏から私に届いた筆書の手紙は額装し、今も私の身近にある。それら、素晴らしい先生から多くのことを学んだ。 例えば、何故、書家の多くがつまらないのか。何故、陶芸家の作品が弱いのか。それが、特に、現代陶芸、現代書あるいは、陶のオブジェや墨象などと呼ばれ、前衛などという冠がついたものがいかに取るに足らない陳腐な物であるか。 それは一つに必然性の欠如に理由がある。書家は習い覚えた書の技術から、新しい作品を作ろうとし、陶芸家もやはり身についた轆轤や焼きの技術の範囲で、新しいものを考えようとする。しかし、そこには根本的な間違いがある。本来、書や陶芸の技術には関係なくアーティストには表現したいものがなくてはならない。それが、たまたま 書や陶芸の分野に相当する時もあるというだけなのだ。そもそも、技術など必要あるのか。表現したいものが明快であれば、技術などは、それから身につけても遅くない。 山の頂に登ろうとしたとき、その頂上が目に見えて入れば、歩き続ければ、時間がどれほどかかろうが、頂上にはいつかたどり着ける。頂上がどこにあるかを知らずに、どれほど頑張って歩き続けても頂上にはたどり着かないだろう。それでも、ときに、人を見下ろす山の頂きにでてしまうこともある。それが権威主義が登ろうとするアカデミズムの山なのだ。 本来は既成の「ジャンル」など必要ない。その存在の理由や根拠は、芸術とは関係なく、その殆どが効率の問題であり経済の問題である。 ▼2014-12-01 17:22 個展を終え 2014年のサンセリテの個展が終了した。いつももことだが、市内の客は少なく市街の方が多い。 それでも有り難いことに、最終日も京都を始めとした。遠来の友との間で話がはずんだ。そのことを考えると、豊橋以外での発表も考えなくてはと、思ってはいるのだが、他では得難いサンセリテの会場の広さと、空間の質を考えると、決断がにぶってしまう。それがため、この20数年、毎年一回、サンセリテでの新作の発表をつづけてきた。 今回の個展でも、海外に長く滞在し、海外のギャラリーでの発表経験の多い作家は、一様に、日本のギャラリーの狭さと、作家のアトリエの小ささを、憂いていた。日常、活動する空間の大きさは、必ず、日本の作品に影響する。日本のギャラリー空間の貧困さは、日本の現代美術の弱さと無関係ではない。 40年ほど前のことだが、ニューヨークのグッゲンハイム美術館でシャピロの彫刻を見た。美術館の広い空間に、高さも左右も1mほど、ボリュームもさほどでもない彫刻が一点。美術館の広い空間に対して、常識では小さすぎるサイズなのだが、圧倒的な存在感だった。これこそが、彫刻と空間の関係であり、彫刻の存在感の本質だと迫ってきた。 しかし、その感覚は、海外の広いギャラリー空間や、アトリエ空間なくしては会得できないのだとも思った。あのシャピロの彫刻は、日本のギャラリー空間におかれれば、空間に対して、調和するサイズとなり、あの小さな彫刻が、大きな空間に置かれることで創り出される存在感は生まれない。狭い日本のギャラリー空間での発表は、消化不良、燃焼不足をおこしてしまいがちとなる。 さて、会期もあと数時間となるころ、訪れた方がフェイスブックに、嬉しい投稿をしていると、その[友達]から知らされた。 個展が終了したばかりなのだが、心と体はすでに、来年の陶磁美術館の「愛知ノート」の制作に向かっている。久しぶりに、膨大な作業量の仕事を、楽しんでいる。それも年内には、搬入しなくてなならない。 ▼2015-03-11 11:13 景象〈表紙の言葉〉101,102 垂直考:立方体の出隅と同一のアールを入隅に持つアングルは直立する 景象〈表紙の言葉〉101号 前号では「水平考」だったが、今回は「垂直考」である。今回も、やはり「垂直」であることに意味はない。 表紙の作品を発表した個展を見たある浄土真宗の住職が、ブログで次のようなことを書いていた。 古くインドの龍樹菩薩の著書・大智度論の「 指月の譬」に「人の指を以って月を指し、以って惑者に示すに、惑者は指を視て、月を視ず。人、これに語りて、『 われは指を以って月を指し、汝をしてこれを知らしめんとするに、汝は何んが指を看て、月を視ざる』、と言うが如く」(月を知らせようと、指で指し示すのだが、愚かな者はその指ばかりを見入って、月を見ないままである」という、言葉とそれが知らせようとするものが異なることを告げている。) たまたま目にした鉄の立方体の全ての出隅にアールがあった。側にあった鉄のアングルの入隅もぴん角ではなくアールを持つ。添わせてみるとピタリと合う。倒れる可能性で残るのはアングルの面に添った方向のみ。立方体の上面の対角線上に立方体と同じサイズの石を置くと、安定して、アングルを垂直に立てることができた。この全ての発想と手順と結果の三者が同時に訪れたとき、制作は始まり、同時に完了する。だが、その三者、いずれも「月」ではなく、「月」の美しさを示したいのでもない。知らしめ、知りたいのは「何故、月は美しくあるのか」である。 垂直考:直角に屈折する線分は一つの重力で直立する 景象〈表紙の言葉〉102号 前号、で、知らしめたいのは「何故、月は美しくあるか」である。と書いて字数がつきてしまった。今回はその続き。 通常、美術は、美しいものを創りだすことが目的とされている。その意味に限れば、美術家が示すのは「月の美しさ」とも言える。しかし、美しさを求めることは、技術的であったり、表面的な美しさにつながる危険が常にある。美しさをことさら求めずとも、必ず美しいものが生み出される行為のあり方。それを探し求めること。それこそが、私の求める現代美術であり、現代美術が常に新しさやオリジナリティに価値を見出す理由なのだ。それが、知らしめたいのは「何故、月は美しくあるか」と書いた理由でもある。それを造形と美術の違いと言い換えてもよい。造形とは、形を作ること。美術とは、美とは何かと考え続けること。 満月はもちろん美しい。しかし、三日月も半月も雲に隠れた月も、好みは人それぞれだが、美しい。まったく見えなくとも、想像した月もまた美しい。自然は本来美しい。しかし、自然自身がそれを望んだわけではない。月の美しさを見いだしたのは人間である。月はその美しさを知らない。満月を美しく思い、満月を望むのは、人の作為である。三日月や雲に隠れた月の侘びた美しさをことさら愛でるのも、同様に作為である。人は作為なくして、行動はできない。しかし、作為に囚われていては、何も見出さず、創り出さない。答えは人間の「作為」に関わっている。