東浜田地質調査16-2
1994 186×160cm  土・ボンド・キャンバス






味岡伸太郎の世界 “美の倫理”
飯田善國


味岡伸太郎の最近の作品、つまり大地を掘って、地層別に選りわけた土をボンドでこねて、カンバスの表面に塗りつけた作品を眺めていると、不思議な気分に襲われる。
 その気分を何と名付けたら良いのか。何かやわらかい、大きなものに包まれて行くときの快感のようなもの、あるいは、根源的なものに触れたとき人の心に湧きおこる深い優しい気分のようなもの、とでも言おうか。
 その作品の表面は、ただ、土が塗られているだけである。作者の自我や主観や感情の入り込む余地は一切ない。それは、ただ、壁土のように無作為に塗られた表面としてだけ存在している。
 人は、その無作為に塗られた土の粒子のつくる表面に吸い込まれてゆく。まるで宇宙飛行士が無限へ向って落下して行くときの痺れるような快感と恐怖のうちに生そのものが在るかのように。
 あるいは、闇の光のなかで出会うものがたった一瞬でありながら永劫に回帰するものであるかのように…。
 味岡伸太郎の作品は80年代の「組成」シリーズの時代からシステムの発見に向ってひたすら作動してきたと言われている。その通りであろう。
 「組成」シリーズの作品群は、作者の眼が、「表現」に向ってではなく、「自然の法則性」を見出し、それを何気なく束ねて行くその束ね方の非主観性・無作為性へ向けられているのを知らせてくれる。そのことが、ある爽かさを生み出してもいる。
 20世紀の芸術が根本のところで、芸術家の個性を際立たせることに力点を置いてきたとすれば、現在は、その反動として、あるいは反省として、芸術家の個性の否定、あるいは個性を超えたものへの視点、といった方向へ向うのは自然の成り行きであろう。
 味岡伸太郎の制作の基本は、作為性の否定という立場を貫くことに置かれてきた。
 彼の目指す無作為性は、無作為性そのものが目的なのではなく、無作為性という態度を貫徹することで、自然の裡に匿されている法則性を見つけ出し、それをシステムとして体系づけるための方法としての無作為性なのである。
 芸術家は自然に対し従順でなければならないが、だからと言って、従順で謙虚でありさえすれば自然はその本質を明らかにしてくれるかといえば、必ずしもそうではない。芸術家は、従順で謙虚でありつつ、更に、鋭い眼と巧緻な論理を備えていなければならない。
 味岡伸太郎は、珍しくこの二つの特質を兼ね備えている。その結果、彼が促えてくる真実は、深く大きな体系をもつに到る。
 どんな体系なのか。
 原理的でありつつ宇宙的であること。時間的でありつつ、空間的であること。細部的でありつつ、全体的であること。自然主義的でありつつ、きわめて思想的であること。
 表層的でありつつ、重層的であること。要素的でありつつ、人間的であること。無作為的でありつつ、構造的であること…など。
 彼の自然に対する自然なこだわりは、近代主義に対するひとつの批判と成り得ているといえる。そこに私は厳しく美しい倫理の香りを臭ぐのである。(1995.3月2日)




Shintaro Ajioka's Ethics of Beauty
by Yoshikuni Iida

A strange feeling comes over me when I view Shintaro Ajioka's recent works. They are produced of various types of sand which have been excavated from different strata. The sand has been mixed with glue and then laid on canvasses.
How can I describe my impressions of these works? Is it similar to the pleasure of being embraced by something which is soft and vast? Or is it similar to being gently caressed by the primordial one?!
Each work consists solely of sand spread on the surface of a canvas. In none of these works is the artist's ego evident. Neither his will nor his emotions can be discerned. They remind one of the earthy walls of a Japanese house which have been stuccoed in a haphazard manner.
The viewer's eye is forcefully pulled over the grainy surfaces. Viewing them one imagines one is floating weightlessly in the infinite vastness of deep space. In this space an astronaut, paralytic with fright and ecstasy, might recognize the feeling engendered by viewing these works as the essence of vitality.
The experience could also be compared to encountering something eternally recurring in light traversing the darkeness of space.
It has been said that commencing with his "texture" series of the eighties Shintaro Ajioka has striven to unravel the secrets of the rules governing nature. I would agree.
In his works Ajioka has not attempted to "express" his inner self, but to discover "the laws of nature" and to arrange the elements of nature according to these laws. It is this lack of conscious self which makes his work so refreshing.
It can be argued that the arts in the 20th century have been employed by artists as a means for expressing their individuality. The reaction against much 20th century art is understanddable and was inevitable. And with Ajioka's work a means of negating or perhaps transcending the artist's conscious self has become apparent.
Shintaro Ajioka has made it a principle to proceed with a radical negation of his impulse to create.
The negation should, however, not be understood as his aim, but as a method to systematize nature. He embraces negation in order to discover the hidden laws of nature.
Every artist has an obligation to follow the laws of nature. But even for artists who fulfill their obligation there is no guarantee that their art will reveal the essece of nature. In order to perceive the essence of nature an artist must possess penetrating and logical sensitivity.
Shintaro Ajioka is one of few artists who possess the requisite sensitivity. The message his work conveys is firmly anchored to a wide ranging system. Hence his art has both depth and breadth.
What is his system like?
A number of pairs of adjectives come to mind: intensive and extensive, temporal and spatial, microcosmic and macrocosmic, naturalistic and speculative, phenomenal and essential, materially and humanistically oriented, spontaneous and constructive, etc.
Working through and with nature is necessary for Shintaro Ajioka. Consequently his work is an effective criticism of modernism. When viewing his most recent work, one confronts and grapples, as it were, with a severe and beautiful ethics. (2.3.1995)










































岐阜・加茂郡白川よりの報告
1998 186×160cm  土・ボンド・紙




これほど多彩な色の「土」があることを、誰が知っていただろうか。陶芸家?彫刻家?それとも日本画家?そのいずれでもなく、いずれとも通じている味岡伸太郎のしごとは、土ほんらいの色彩と質感の豊かさ、さらにその無碍なるすがたを我々に開示している。
 出かけた先々で採取した土に接着剤を混ぜて練り合わせ、絵具のようなそれを手に、やおらキャンバスや紙に塗りつけるのが、現在の彼の作法である。そうして生まれた作品は、まさに絵画としかいいようのないものだが、彼自身は文字を書いているのだという。
 それにしても、どろどろとして不揃いの「土」絵具の感触は、表現においてある種の抵抗感がつきまとうはずである。だから、絵であるにせよ文字であるにせよ、小手先の説明的な運びではなく、肉体のまったき運動と連動した上で、ある「かたち」が描(書)かれていくのだろう。自在でありながら不自由であるという矛盾をはらんだ素材。したがって、それぞれの土が本質的に持っている「かたち」と彼自身の内部にある「かたち」とが出合わない限り、作品は成立し得ないことになる。そのために、理性や知識で画面を制御することなく、味岡は土にすべてを委ねてしまうのだ。いわば、無作為の作為という風情。彼の作品が太古の絵画や文字の発生を想わせる由縁だが、無論そこに回帰するわけではない。禅的苦悩と戸惑いの厳しい振幅から生まれたこの手法は、やはり現代のものであろう。
 作家としての出発が前衛書であるにせよ、自身内部の「かたち」に表現を与え続けてきた味岡は、外部の「かたち」である土と出合うことで美術に未知なる領域を拓きつつある。そこは彼にとって、人間を含む自然と創造の命とが総合される「場」であるに違いない。
野地耕一郎(練馬区立美術館学芸員)
















































































































富士山麓地質調査30-3
1994 84×24cm  土・水彩紙






水彩紙の上に、幾色もの均一な面が並べられている。これは富士山麓の崖から高さ4メートルにわたって採取された土、それ自体のもつ色である。水性ボンドで上下変わることなく規則的に採取した土を紙の上にのばしていくと、その微妙な色の変化は、心地よい色相となって現われてくる。
 素材としての土の在り方ではなく、土そのものに行為を委ねる。こうした一切の個人性を排除することに努めた表現は、近代という時代がもたらした作為によって束縛されていた物質観に、変幻自在な多元的存在価値を呼び起こさせる。まるで拾い物するかのようなその希有な視点から、ジャンルを越えた表現を試みる氏の姿勢は、自然に対して「絶対に美しい」という信念に基づくものである。練習や作為といった個人の問題としての仮の自己確認ではなく、自然の姿としての物質の美しさにひかれ、そこに自身を越えた世界を見ようとしている。
 土が土であること。それはごくあたりまえのことであるが、いかなる加減も含まないし、どんな些細な邪推も許さないのである。その削ぎ落とされた物質が表わすものこそ、現代文明に侵された者の「表現=個人的な作為」を第一とする在り方を刺激するかもしれない。味岡伸太郎は、いままた土の新しい歴史を、豊橋という土地に積み上げている。
廣江泰孝 (岐阜美術館学芸員)












解、あるいは風土記抄出
三河、遠江、美濃よりの報告
MAY 1-30,1999
GALLERY HIRAWATA


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