「書」と「土」の関係


日本の空間表現の一つとして「書」とは一言で言えば只、文章(つまり文字)を書くことである。それはあらかじめ決められた文章、そして書き順に従い、通常休むことなく、一貫として一回限りの行為の連続で成立することとなる。必然的に行われる墨次ぎの行為と同じく一貫した動きでなくてはならない。
 ところで「書」の書かれた部分とは筆の連続する上下運動。具体的に言えば書かれた部分は紙に対して圧力となる運動となり、書かれていない部分は力を抜いて上昇する運動となっている。つまり、腕と筆の波長のような上下運動をある水平紙面で切り取ることで残る斬跡を我々は「書」と呼んでいる。さらに「書」では我々はその運動の時間をたどることも可能となる。
土を掘り、提示する。あらかじめの決定に従い、途中考えらることもなく、只掘り進む。どのような歴史がそこから出現するのか、そしてその土が提示されたとき、何が展開されるのかはとうてい予測不可能である。しかし、すでにプランが決められ、行為が決定された時点でその結果は保証されている。その保証に対する唯一の条件とは、只掘り、只提示することのみである。 
我々は造形の概念の多くを欧米に学んだ。構成=コンポジションもその一つである。コンポジションとはその要素が画面の中を移動し、サイズが変更され、ギリギリまで検討され、その結果として、最後に絶対的なサイズと位置が獲得されることである。
 それに対して「書」は動きによってもたされる行為の結果としての形である。書く動くが問題になる。行為そのものの純粋性、つまり書くための動作が純粋ならば結果としての表現は成立すると考える。ここには画面上での試行錯誤の痕跡は何ら存在しない。書いた後に修正することも通常は許されない。また書かれた部分のみが問題とされるのでもない。目には書かれていない点・時間をみることは構成=コンポジションの概念には含まれていないだろう。その動きは文字を書くことによる自然な動き、必然的に導き出される動きでなければならない。

味岡伸太郎