「僕がやりたいことは、自分の作りたいイメージをそのまま形にすることではない。言葉にすれば他力本願的というのか、その素材が自然と導いてくれる形を求めている。どんな物にも目に見えない所で秩序や法則というものが存在している。それを僕はシステムとよんでいる。あるシステムを自分の作為を盛り込まず、素材に投げかければ、実は自然に納得する形になる。そういうシステムを見つけ出し提示することが現在も、また、今後も自分の仕事だと思っている。」
これが味岡伸太郎の創作のコンセプトである。現代美術をはじめ、建築、書、タイプフェイス、グラフィックデザイン等彼の創作活動はすべてこのコンセプトに基ずいている。
彼のこの多岐にわたる創作活動をマルチ人間のごとく称するひとがいる。この創作活動の多様さを、ひとり業とは考えられないという程度の他愛のないものだが、これはあきらかに間違いである。彼の行っていることはつねにひとつのことにすぎないのである。
彼は一時期、たたみ2畳ほどの和紙に黙々と点を打ち続けたことがある。そしてこの作業は3年以上に及び、その作品数は悠に千枚を越えるという。この点を打ち続けたことの意味の大きさは、それがコンポジションによっていないという点にある。つまり、画家が描かれた形を通して自らを見つめる行為とはあきらかに違うという点である。それは修行僧の冥想のような行為。自省する者のひたすら内へ内へと向かう行為なのである。
したがって、味岡伸太郎のこの「点」は、空間のなかに必然的バランスでおかれるということはない。それはひとつひとつ、前においた点との関係性においておかれてゆくだけである。つまり、そこには始まりもなく終りもない。そこには疎と密、軽と重といった対立する概念はなく、ただ味岡伸太郎の総体の「時」と「質」が記憶として吸い込まれてゆくだけなのである。
かつて私たちは物を描くために“見る”ことを教わった。“見ること”つまり“向き合うこと”である。そして、この向き合うことは同時に距離をとることの大切さを教えてくれた。そしておそらく、この距離によって精緻極まりない近代は創られたはずである。
しかし、味岡伸太郎はこの“見る”ことの意味を根底から覆えしてしまう。味岡の「作為を盛り込まない」「素材に投げかける」といった行為は距離をとりのぞくことによりはじめて可能となる。すなわち、見るために距離を拒絶するという逆説のなかに味岡伸太郎の卓越したコンセプトがみえてくるのである。
味岡伸太郎にとって冥想行為とは、味岡自身の存在の「質」を高めてゆきながら「自然」に近ずく道なのである。そして、この「自然」とは、あらゆるものを包含した宇宙のことであり、その「自然」に近ずく意識の流れとは、味岡が素材のなかに見る秩序(システム)と同じものなのである。つまり、味岡にとって“見る”ということは、その秩序(システム)と意識の流れが瞬時に融合することなのである。
私は彼の豊橋にあるアトリエを一度だけ訪れたことがある。そしてその広いアトリエの一角に積み上げられたその点による作品にそのとき初めてでくわしたのである。
そこで私が見たもの、そしてそのときの衝撃は、かつて見たいかなるタブローからも受けたことのないまったく異質のものであった。
その衝撃は向き合って“見る”という行為にはね返ってくる感覚とはあきらかに違う種類のものであった。つまり、描かれた造形がその形質によって味岡を語るというものではなく、むしろ、その作品のもつ波動のようなものに瞬時に感応されてしまったという感じなのであった。
それにしても、この作品を包み込むようにして漂う魅惑に満ちたあの気配を、どのように説明したらよいのだろう。いや、少なくともこれは近代主義の語法で語ることは不可能なことだ。
味岡伸太郎は自然の木や石を使ったオブジェを数多く造っているが、この創作において失敗はありえないという。その理由は、その木なり石に対し作為を盛り込まないからであり、もし、それでもなお失敗することがあるとすれば、それはその木なり石に対し無理強いしてしまったときだけだというのである。また、味岡はオブジェを造る過程で思索するということもない。かたち造られるものの結果は、すでに彼の意識のなかにあり、作品はその木特有の秩序にそったプロセスによってごく短い時間で仕上げられる。そして、その作品に対し、修正したり、後から手を加えるということもない。作為をすてるためには「考えない」「時間をかけない」「直さない」が3原則だ、と味岡は言うのである。
また、これは極めて重要なことなのだが、味岡が木のなかにナタを打ちこむとき、その木は一瞬にしてその木のもつ秩序(システム)にそって割れる。しかしそのふりおろされるナタには、味岡の総体としての力とストロークがともなっており、木の秩序にならいながらも味岡の形状を成すということである。
このようにして割られた木は、あらかじめ予定された新たな秩序によって再び組み合わされ作品となるのである。そして、その作品は、ある種のやさしさと、生きていることのリアリティをわれわれの前に見せてくれるのである。