「素材としての土の在り方ではなく、土そのものに行為を委ねる。こうした一切の個人性を排除することに努めた表現は、近代という時代がもたらした作為によって束縛されていた物質観に、変幻自在な多元的存在価値を呼び起こさせる。まるで拾い物をするかのようなその希有な視点から、ジャンルを越えた表現を試みる氏の姿勢は、自然に対して「絶対に美しい」という信念に基づくものである。練習や作為といった個人の問題としての仮の自己確認ではなく、自然の姿としての物質の美しさにひかれ、そこに自身を越えた世界をみようとしている。
 土が土であること。それはごくあたりまえのことであるが、いかなる加減も含まないし、どんな些細な邪推も許さないのである。その削ぎ落とされた物質が表わすものこそ、現代文明に侵された者の「表現=個人的な作為」を第一とする在り方を刺激するのかもしれない。」

岐阜県美術館学芸員 廣江泰孝 (美術手帖より)