自然の摂理に己をゆだねる生きざまの中から


福井勝義著「認識と文化」(東京大学出版会・認知科学選書21)で紹介されている東アフリカ、エチオピア西南部のボディ社会の「色と模様の民族誌」が興味深い。
 その報告は、「ボディ社会ほど色と模様に彩られた世界が、この地球上にあるのだろうか」で始まる。そこでは牛と共に生活するボディの社会が、色彩と模様に対して、現代の我々からは想像もできない程の高い認識を持っていることが指摘されている。そして、それだけにとどまらない彼らの世界観や生きざまと密接に結びついた壮大なドラマに驚かされる。
 ボディの子供達は10歳になる頃には色彩に対する認識はほぼ完成し安定する。大人達は与えられた200枚を超える色彩カードの色名に対して、瞬間的に色彩語彙で反応する。色彩の専門家でなければ答えようのない、微妙な色彩に対してもそれは変らない。ボディ社会には明確な色彩分類の体系があり、社会の成員全体がその体系を共有している。さらに、16世代にもおよぶ牛の親子関係を毛色を通して熟知している。彼らにはメンデルの法則に匹敵する民族遺伝観の存在があり、メンデルの法則とも殆んど矛盾しないという。
 ボディの人々と我々は同じ人間である以上、彼らが認識できることは我々にも認識できる筈である。しかし、我々の社会ではマンセルやメンデルという色彩学や、遺伝学の天才の出現によって、始めてその存在を知る。天才の発見した法則を我々は実態のない―ボディ族と比較したとき―知識として学習することになる。文明化とは皮肉にも「文明化の過程の中で失ったものを、天才の力によって再び取り戻すこと」という側面があることは否定できない。そして我々の文明社会―知識で全てが理解でき、問題を解決できると考え、自然と対峙し、自然は意のままに利用でき、完全な美と調和は人工の中にあると考える社会―とは、最も進んだ文化でもなければ、真理に到達する為の唯一の方法でもないことをボディの社会やレヴィ・ストロースの報告から我々は知らされた。
 近代を作り上げた―特に西洋の―文明では、個人の中に美や調和を造り出す源があることが前提となっている。意識下の世界や思考の働きを表現することを目的とし、知識や道徳にしばられる人間の潜在意識の自由な表出をねらっていたシュールリアリズムのオートマティズムはまさにそのことが前提となっていた。しかし、知識の呪縛からのがれる為の知識の自動的な放棄という手法も又、知識の産物であるという袋小路からのがれることはできない。シュールリアリズムの時代からすでに多くの時間が過ぎ、新しい美術の形式も生み出された。しかし、基本的な構造は何も変わっていない。日本の現代美術に漂う、ある種の閉塞感、 満ち足りない虚脱感はこのことに端を発していると私は考えている。
 ここに、自然との距離を捨て、自然に己をゆだねる結果に満足する立場がある。
「自然の中には本来、美や調和の存在があり、自然の状態ではその美や調和は表面化されないが、自然を意のままにする態度―自我―を捨て、自然の摂理に己をゆだねた時、自然の法則や構造や調和のシステムは我々の前に姿を表わす。」それはペインティングの一筆ごと、土や石や木を置くという行為の瞬間の連続の中にこそ求められている。

 味岡伸太郎