土という素材に習う

「解 あるいは静岡県引佐郡三ヶ日町本坂よりの報告書」と題された一連の土の作品群の前に立ったとき、わたしがとっさに思い浮かべたのは千宗易利休のことである。利休の前衛性は、当時のもっとも先鋭的な戦略家織田信長によって認められたわけだが、他の武将たちがどこまで利休の前衛性を理解していたかは疑問だ。佗茶という利休の独創は、一言で言えば従来の価値の転倒であった。利休が眼指したところは、沈黙の雄弁であり、ミクロコスモスの壮大さであった。日常の起居のなかに、生死を賭けた利休の思想がそこにはあった。
 地層調査で採取した土を、ボンドを適量加えるだけで、土に習うかたちで水彩紙の上に塗り込めていく。そんな作業によって作品を形成した味岡の方法は、油絵の具と画布という近代絵画の制度への反措定なのだが、おそらく、味岡にはそんな意識すらないのかもしれない。味岡は、土という絵の具に出会ったときに、自身の表現の原型を掴んだのである。
 思い起こすのは、秀吉が平鉢に梅を活けてみよと利休に迫ったとき、利休は平鉢に水をはり、梅の枝をしごいて水に梅の花びらを散らしたというエピソードだ。利休は、器に添うかたちで花を活けた。その結果、梅も生き利休も生きたのである。
 で、味岡の作品がわたしたちに伝えるのは利休と同じ精神だ。味岡は、土に添うことで自身の表現をも生かしたのである。

青木 健(詩人)